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山からのたより  その25  2017年夏の巻

山からのたより  その25  2017年夏の巻

出陣学徒「さん」の消息を尋ねて

                                      池谷キワ子

今回は山から離れた話題です。最近とてもこころを動かされた出来事がありましたので記してみます。
先の大戦から70年余という長い時間が経ち、体験した人も少なくなりました。
でも何十万人、何百万人の若者が戦争で将来を絶たれてしまった、今後決してあってはならない、
伝え残したいことです。


60年前の高校時代の恩師「兵頭信彦先生」は小金井雑学大学で西洋史の連続講座を
昨年まで20年近く続け、その歯切れのよさ、わかりやすさに好評をはくしてきました。
私たちクラスメート数人は毎回出席して、昔と寸分変わらないお話しぶりを懐かしみ、
終了後先生を囲んでミニクラス会を開いてきました。

yamakara25-01.jpg
(写真・小金井雑学大学・2015年)

3年前その講座に、小林宏夫妻という方が訪ねていらっしゃいました。

『戦死した兄・小林蕃(こばやし しげる)は兵頭信彦先生宅に下宿していて、
一橋大学(当時は東京商大)から学徒出陣しました。
出陣から70年を機に、出陣学徒の遺品を展示することになり、故郷に兄の遺品を探しにいったのですが、
戦災でほとんどが焼失してしまっていました。ただ一つ、一年先に学徒出陣していた兵頭先生が、
軍隊から兄に送ったハガキが出てきたのです。
なんとか兄の足跡をたどりたいと、ネットでこの講座を探し当ててやってきました』とお話しになりました。

その後小林夫妻は、兵頭先生の戦争体験記「カーキ色の青春」(これは未刊の記録です)を読み、
年2回の小金井雑学大学講座に通ってきていました。
昨年の16年11月、「アメリカの発展とイギリスの繁栄」という小金井雑学大学講座の折、
先生は自ら学徒動員された時のことを余談として熱心に語ってくれました。

『同じ町内(国分寺町平兵衛新田、現在の国分寺市光町)に住む3人の学生が同期の出征兵士となりました。
中のひとりが一橋大生で潮田脩君といい、南方の戦地に向かったがあえなく戦死してしまいました。
戦争が終わって潮田君の家にお悔やみに行ったのでしたが、母上のお嘆きは深く、
いたたまれないほどで、声のかけようがなかったのでした。
一方自分は、この歳まで生き残った。いったいどういうことなんでしょうか。
戦争が終わったらそれぞれの大学にかならず帰ってこようと言い合ってもいたのでしたが』

先生はよく戦争体験のことを講義のなかに織り込んだのでした。

「カーキ色の青春」は私たちクラスメートも回覧しあい、ほとんどが記憶のなかから書き
起こしたというその内容は、次代への伝言であり、戦争の貴重な資料であると感嘆したものです。
その冒頭の部分に潮田君のことがでてきます。
少し長いですがご家族の了解を得ましたので引用いたします。

「カーキ色の青春」(兵頭信彦著)より抜粋

昭和18年11月30日、秋晴れの日であった。
午前10時、町の青年団員数名が、団旗を先頭に押し立てて門前に整列、
「兵頭信彦君、入営万歳!」を三唱して出迎えてくれた。東京帝国大学制帽を被り、
黒の学生服に、祈武運長久兵頭信彦君、と日章旗に大書きされた(カッコ内は略)を胸にかけ、
青年団員に先導され、日の丸の小旗を持った町内の人々を後に引きずりながら、間もなく稲荷神社境内に到着した。
いわゆる“学徒出陣”として当地区から入営するのは3名である。
私の他に潮田君(東京商科大学2年)と越前谷君(日本大学2年)で、すでに神社境内に到着して私を待っていた。
3名揃ったところで、町内会長の司会のもとに、神前での武運長久の祈願祭が執行された。
明日からの不安な軍隊生活を思うといたたまれない気持ちであったが、それはおくびにも出さず、
日本男子の本懐といわんばかりの態度を取り続けなければならぬ自分にある種の滑稽さも感じていた。
“まあ、なるようになれ”という気持ちであった。
~中略~
一方、潮田君は船舶兵として広島の部隊に入隊することになり、母親とともに直ちに指定地に向かったが、
現地で支給された二等兵の軍服に着替えて、母親に手を振って別れたのが最後であったという。
~以下略


兵頭先生は昨年11月の講義のあと体調を崩して、17年1月に93歳でお亡くなりになってしまい、
この講座が最後となりました。出席していた小林宏夫妻は、潮田さんが、お兄様の小林蕃さんと同じ
一橋大学の出陣学徒生と聞き、碑の名簿にも載ってなかったのをつきとめました。
「たぶんお母様はお嘆きのあまり大学に報告なされなかったのでしょう」と小林宏夫人の梨花さんはおっしゃり、
潮田さんについて自治体の戦時下の記録や名簿などを調べてまわりました。
問い合わせ先の一橋大学同窓会では、潮田さんのクラス写真を見つけ出し、消息も探してもらったのですが、
70年前のことゆえ、わずかしか判明しません。
また「いしぶみの会」(一橋大学の学徒慰霊碑を守り、戦没学友の歴史を継承する会)の代表の
竹内雄介氏がさらにたくさんの資料にあたって調査し、それを一枚の報告書にまとめてくれました。

その報告によると、広島の宇品港から西丸という船で戦地に向かった潮田さんは、同大の学徒12名とともに
セブ島に配属され、その後数名は幹部候補生として国内に戻っているのですが、潮田さんは船内に流行った
パラチフスにかかったらしく足止めされた模様でした。
彼が戦死したとされる19年4月19日は米軍機の猛烈な砲爆撃の中を部隊は転進中であったといいます。
400名の第5中隊では、生存者は100名あまりだけでした。
大学時代は村松ゼミ所属、兵頭先生と同じ町内の平兵衛新田の家から通学。
演劇映画研究班の幹事でもあった、以上は戦友会の名簿からわかったことです。

yamakara25-02.jpg
この写真は潮田さんの唯一の写真です。
一橋大学(東京商大)予科3年6組の集合写真の一部で、左手一番後ろの眼鏡を掛けた長身の学生が
潮田脩さんです。

17年5月20日、一橋大学佐野書院にある「戦没学友の碑」での追悼会に、小林夫妻に誘われて筆者は
行ってきました。
碑は2001年の建立で、818柱の同大戦没者の名が刻まれ、今年新しく刻銘されたのは、
「潮田脩さん」おひとりでした。いしぶみ会では年2回の追悼をずっと重ねてきています。

当日は碑の前での参拝、経過報告のあと、室内でお話し合いがあり、小林宏氏が「カーキ色の青春」の
学徒出陣の部分を読みあげ、兵頭先生からの古いハガキを示して、戦死のお兄様、
小林蕃さんからたどっていって、潮田さんの名が浮上したいきさつをお話しになりました。

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(一橋大出陣学徒の碑と記名碑)

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(兵頭先生からのハガキを掲げる小林宏氏)

いしぶみ会の竹内氏が、方々に働きかけて得た情報によると、潮田脩さんのお兄さんの道彦さんも
同大を18年に卒業していて、戦後まもなく病死したとのことです。

そしてその後の5月末日、小林梨花さんから潮田さんのご遺族のことが明らかになったとメールが届きました。
「いしぶみ会」の竹内氏があちこちの名簿をさぐるうち、潮田さんの姪が神奈川に在住とわかったのです。
潮田さんの母上は、長男、次男に先立たれましたが、三男の家族と一緒に後半の人生を過ごし、91歳で
天寿を全うされた由でした。
「ご母堂が孤独な戦後ではなかったことがわかり、少し安堵いたしました」
と書く「いしぶみ会」の竹内氏です。
姪の方の存在が判明したからには、潮田さんの短い生涯の様子をもう少し
知ることができるかもしれません。今秋の学園祭には潮田脩さんの足跡について発表する予定だそうです。

潮田脩さんは70年を経てようやく念願の母校に帰れました。

yamakara25-05.jpg

(記名碑最下段に載った潮田さんの名)
  1. 2017/07/02(日) 21:32:46|
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