山からのたより その27 2018年秋の巻 地域で生まれた近代遺産『五日市憲法』 池谷キワ子
清水茶寮のみなさま、しばらくです。ここ一年、身辺にいろいろ起こってしまい、その上自身の高齢化とで、
すっかりご無沙汰になってしまいました。
ほんとうに災害続きの日本。特に大雨や地震で山崩れや崩壊が起きると、山を管理している私には
身を削られるように感じられます。北海道胆振東部地震の厚真町の山は、写真でみてもほんとうに
無残な姿ですね。今回は旧五日市町に残されていた『五日市憲法』のお話しを書きます。
深澤集落に咲く「白花ホトトギス」10月8日

50年前、五日市町郊外の深澤集落(旧深澤村)の古い土蔵から、『五日市憲法の草案』が発見されました。
自由民権運動が高まりを見せたころの明治14年に『千葉卓三郎』という29歳の若者が起草したものでした。
数年前、五日市を訪れた皇后さまが、その年特別に印象に残ったことがらとしてこの『五日市憲法』のお話
をされました。その一部分を宮内庁の資料からここに転載させていただきます。
~前略~
「明治憲法の交付(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き
上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、
更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。
当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代
日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘
を覚えたことでした。
長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界
でも珍しい文化遺産ではないかと思います」(宮内庁HPより)
この草案の発見者の中心であった新井勝紘氏が、その内容、背景、氏のその後の歩みについて記したのが、
このたび発刊された岩波新書の『五日市憲法』です。明治22年に伊藤博文らによって作られたいわゆる
『大日本帝国憲法』に比べてみても、明治14年作成のこの憲法は優れた部分の多いと言われ、なによりも
自分たちの手でこの国を担っていこうという情熱から生まれた一般市民による憲法草案だったのです。
当時は自由民権運動が高まりを見せ、多くの草案が民間で作られました。お互いを参考にしながらそれぞれ
がオリジナルな部分の精度をきわめて書かれています。特に『五日市憲法』は、国民の権利の保障する立法権、
それを裏付ける司法権、この部分が秀でているのだそうです。
五日市憲法を起草した『千葉卓三郎』は宮城県栗原市の仙台藩士族の出生で、五日市小学校の母体となる
勧能学校の校長になりました。新井氏の著書によると、五日市に来るまでのまで卓三郎は、12歳で家を出て
から、儒学を学び、戊辰戦争も参戦し、ハリストス正教会でニコライの下で洗礼を受け、ラテン塾やメソジスト
教会でキリスト教や外国語を学び、商業にも手を染めるという貪欲な学びの青年時代を送ってきています。
五日市での千葉氏を献身的に支えたのが、地元の『深澤権八』で、五日市のとなり、旧深澤村の素封家の若い
当主であり、五日市地域に『学芸講談会』という組織を千葉とともに作り、20歳の若さでリーダーとして討論会や
演説会の活動を推し進めました。たまたま、この会のメンバーに私の曽祖父池谷精一も名を連ねていたのでした。
でもほんとうに残念なことに、千葉卓三郎は草案を完成させてまもなく31歳で結核により亡くなってしまうのです。

「五日市憲法」が発見された土蔵と深澤家の屋敷跡
発見当時より修復されています。卓三郎の写真はスナップが一枚のこされているだけで、
それもおもざしがはっきり写っていません
卓三郎が憲法草案を作り出すことができたのは、五日市という土地の文化の高さやこの地での民権運動の
高まりがあってこその結果だと新井氏は述べています。そのころの五日市は五の日ごとに市が立って、周辺
から人々が集積し、経済的にも豊かで進取の気性があり、「村は小なりといえども志は高く・・」の地でした。
権八の生まれ育った深澤集落は五日市から数キロ離れた山奥ですが、権八は多くの新刊書を購入できる
ゆとりがあり、27歳で神奈川県(当時五日市は神奈川県)の県会議員にもなっています。

五日市町史より撮影。
千葉卓作郎自筆の蔵書メモ。土蔵から200冊余り、ほかに記録には170小冊余り、
権八の所有本がありすべて外国憲法、法律関係、外来思想。卓三郎が学んだとされる。
卓三郎を全面的に支持した深澤権八は、卓三郎死後、遺品の中にあったこの憲法草案を譲り受け、
土蔵に大事に仕舞いましたが、権八も卓三郎の死より7年ほど経ってから29歳の若さでこの世を去って
しまいます。五日市憲法にかかわった二人が三十歳そこそこで生涯を終えなければならなかった、その無念
の思いには胸が痛みます。この二人の夭逝で、卓三郎が心血を注いだ憲法は世に開示されず、権八は憲法
の存在を子孫に伝えていけなかった、このため草案作成から86年も経って、「開かずの土蔵」だった深澤家の
蔵を精査した新井氏たちにより、やっと日の目をみることになったのです。草案そのものが「私を発見して!」と
無言の秋波を送ったからではないでしょうか。

五日市憲法草案の碑 五日市中学校
皇后さまのおっしゃるように、日本の近代化黎明期に、自らの手で政治をと真剣に考える若者がこの草深い
田舎にいて、『学芸講談会』として大勢が参集し、熱い議論を交した、そしてそこから『五日市憲法』が生まれた
ということを、私は地元人としてとても誇らしく思えるのです。
参考・・町田市立自由民権資料館、五日市郷土館
「五日市憲法」新井勝紘著 岩波新書
「五日市町史」昭和50年刊行
■■■
深澤家跡すぐ近くに『深澤小さな美術館』があり、建物、彫刻、絵画、鯉の泳ぐ湧き水庭園がすべて
造形作家・友永詔三氏の手作りで、個性豊かな楽しいスポットになっています。
- 2018/10/14(日) 00:55:32|
- 山からの便り
-
-

10月になり、秋を感じる季節となりました。
今年は台風の多い夏でしたが、宮崎は大きな影響もなく過ごしていました。
毎年強風や大雨で倒れてしまう作物もありますが、今年はスッと立ち、
立派に育っているなと9月末まで喜んでおりました。
ところが9月30日の台風24号で、この地域は大きな被害を受けました。
雨風がとても強く、長い時間続いたので、あちこちで倒木もあり、土砂崩れもあり、
停電してしまいました。
ハーブ園も土砂崩れ・ハウスのビニールが破れたり、作業場のトタン屋根が飛んだり穴が開いたり…。
作物の多くも強風や大雨で倒れてしまいました。
日々、ひとつひとつ復旧作業をしながら形になってきました。
作物たちは、根っこはしっかりしていたので 衝立をして起こすと、また元気になってきています!
友人が手伝いに来てくれ、一緒に作物を起こしながら、「何だか元気になるね」と話していました。
雨風に当たりながらも、ちゃんとしっかり生きている!!その力強さを深く深く肌で感じています。
スィートバジルやホーリーバジル は今年収量が落ちてしまいましたが、
今は少しずつ <バジルペースト> 作りをしています。
これからレモングラスや生姜の収穫です。
エビスグサ収穫も年内に始まります。
台風が去った後、秋の作業が始まったうみの風ハーブ園。
たくましいハーブ達のお茶をよろしくお願い致します。
今回は、お客様からハーブ園はどんな所ですか、とご質問がありましたので、
うみの風の畑から見える風景を写真で紹介します。
上記の見出しの写真は、山の畑の一番上です。
手前の黄色い花の作物は、エビスグサです。 奥は海が見えます。

こちらは家の畑のカモミール畑の周りの風景です。

海の近くの畑から見える風景です。 灯台が見えます。

お正月の初日の出の写真です。

台風で倒れたハイビスカスローゼルを起こす作業をしました。 海の近くの畑です。
尚 美
- 2018/10/14(日) 00:28:38|
- うみ風からの便り
-
-