山からのたより その15 ~養沢集落の昔~
池谷キワ子
このシリーズもおかげさまで15回となりました。
読者のみなさまはもちろん、掲載くださる清水茶寮に感謝です。
森林・林業・山村のことは実態があまり知られていないようで、
このページでお知らせできてうれしく思っています。
今年は大雪の2月となり、根雪となって長く残りそうで心配です。
春の待たれるこの時期はお正月からとくに行事が続きます。
ここに記すのは、もういまでは存続していないことが多いのですが、
いくつかを追いかけてみます。
わたしもかなり長く生きてきたので、つい山の社会が華やかだった
何十年も前の話になってしまいます。

(これは昨年の養沢風景。今年はこれ以上の積雪です)
●1月15日、『小正月』は「藪入り」とも言って林業の家では住み込みで
働いている人が実家に帰ります。
印半纏(しるしばんてん)という屋号入りの作業服が支給されます。
またこの時期は「繭玉飾り」といって、今年の御蚕様がたくさん糸をだしてくれるように、
繭になぞった上新粉の小餅を枝にさして飾ります。
合わせて今年の豊作祈願です。17日は「山の神の日」。
この日ばかりは山から遠ざかっていないと山の神の怒りにふれるのだそうです。
●1月20日『えびす講』。
台所に祀ってある「えびす様」にお明かりをあげ、尾頭付きの鯛そのほかを
お供えして家内安全と今年の豊作を祈念します。
えびす講は10月20日にもやり、この日がより一般的のようです。
わが家ではいまでも続けています。
●2月3,4日『節分』『立春』。豆まきの折、「福は内、鬼は外」のあと、
養沢では「鬼の目玉をぶっつぶせ!」というのです。
イワシのあたまを焼いてヒイラギに刺す、どこでもやりますね。
●2月の最初の午の日(今年は2月4日)が『初午』で、お稲荷様のお祭り。
5色の幡と油揚げや豆ご飯を奉納します。
養沢では数十年前まで「ちんちょうや」と言って、子供が囃し歌を歌いながら
家々からお菓子を頂戴して歩きました。

(写真は初午の稲荷神社。その11でも紹介しました)
こうして挙げていくと書ききれないほど行事が目白押しだとわかります。
山仕事は冬から春にかけて多く、田んぼのない養沢でも畑は細々ながら在り、
農繁期には学校はお休みとなってみんなが家の手伝いです。
「学校林」という林地もあって、夏休み前ごろには、全員で鎌を手に山へはいり、
幼樹の周りを刈る「下刈り」をさせられました。
その時の経験があまりに暑くて過酷、「山作業員だけにはなりたくない」と
クラスの男の子たちは肝に銘じたようでした。
そのころは村の財政も乏しく、学校林を育てて、木材生産で得た金額を学校資金の
足しにしようと親たちは躍起だったのです。
養沢では秋祭りより春祭りで、臨時の舞台を青年団で建てて村芝居に興じたのは
戦後でした。わたしはちょうど子供から思春期のころ。
集落の青年たち、ちょんまげのかつらをかぶったおにいさんたちや島田に結った
年頃の娘さんが素人芝居に熱中します。私たち子供も舞踊やら寸劇に登場させられました。
股旅ものや「お染久松」道行きもあって、「あれは〇〇さんだ!!」と
やっと見破っては大笑いです。
この催しで、ひそかなロマンスも青年たちのあいだで育まれたりしました。
『獅子っ狂い』といわれる「獅子舞い」もお祭りのメイン行事で、
3匹の獅子と「ささらすり」の女性4人、集落特有の調子を奏でる笛吹き、
一行は各神社を奉納してまわりました。
お祭りは、豊作を願う神事とからませて娯楽の少ない山間の最大のお楽しみ。
桜の咲き誇る4月12日が決まりでした。

(写真は昭和26年4月、お祭りの片づけを終えた記念撮影。筆者も写っています)
食べ物に関しては、暮れの「お餅搗きと蒟蒻作り」、
春からの「お茶摘み」、「梅干しつくり」「ラッキョウ漬け」、
「ぼうち」と呼ばれる「脱穀」、「干しさつまいも、切干大根」つくり、「白菜」は
冬の貴重野菜で、大事に新聞紙に包んで蔵へしまいます。私は5人姉妹で、
母の「夜鍋仕事」は娘たちの衣類つくりで、とくにお正月近くなると大車輪。
明け方まで奮闘して、元旦の朝、枕元に仕立て上がった晴れ着を並べてくれました。
靴下の穴が開いたのは電球をいれて糸かがりするのは子供もやらされましたが難しい仕事でした。
昔の養沢川は、いまよりずっと生き物が多かったように思います。
いまではすっかり消え去った「ぎばち」「かじか」「うなぎ」が沢山獲れました。
「鮎」「やまめ」は放流しているせいで今も獲れますが「はや」「めだか」も
影をひそめてしまいました。
父たちはだれも、釣りというより素潜りで魚を「さくり」にひっかけてたり、
「突き」でついたりして魚を取り、ときには「どう」という竹で編んだ筒状の仕掛けを
流れに設置します。入ったら出てこられない仕組みの筒です。
中でも「かじか」獲りは、そーっと石をどかして、水底に張り付いているのをすくう、
女の子でもできました。「かじか」は「あたまでっかち」で、かりかりに囲炉裏で焼くと
香ばしい味わいでした。

(上の写真。いまでも昔からのやり方で、中央にある「芋洗い機」にいれて、
養沢川の流れでまわして泥を落とす家がある)
でも、いっときはほとんど消え去った「ホタル」が近頃復活してきたのはうれしいことです。
洗剤も改良されて、浄化槽も普及したおかげでしょうか。
養沢川は人工的なことはなにひとつしないのに「源氏ボタル」の自然発生が戻ったのを集落では
自慢にしています。
(今回は写真の収集がうまく行かず、獅子舞いの写真などお見せできないのが残念です)
- 2014/02/16(日) 21:22:32|
- 山からの便り
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明日のお茶会を控え、いつもならバタバタとしているが、今日は雪のせいか時は静かで、私は“紅大豆”を
煮ながら、すぐに機嫌をそこねてしまうようになったPCに「しばらくガンバッテね。」と言い聞かせて仕事
を始めている。
さて、日本奥地紀行の著書、イザベラ・バード女史をご存知であろうか。
明治11年に横浜に47歳で上陸し、その後何度も日本を訪れ、当時多くの人が知ることのなかった日本の
辺境地や山村を訪れ、その様子を記録された旅行家である。この本に出合った時は、明治11年頃の日本の
情勢を思い、よくぞ女性が!と膝を叩いて感激し、遠く明治の女性から熱い力をもらった。
その日本奥地紀行の中に、山形県南部の置賜地方を訪れた際の記述がある。
南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。
‘鋤で耕したというより鉛筆で描いたように‘美しい。
米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に
栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。
自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところのものである。
彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。
これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。
それでもやはり大黒が主軸となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。
美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。
どこを見渡しても豊かで美しい農村である。
彫刻を施した梁と重々しい瓦葺きの屋根のある大きな家が、それぞれ自分の屋敷内に建っており、柿やざくろ
の木の間に見えかくれする。
蔓草を這わせた格子細工の棚の下には花園がある。
・・・以下続くのであるが、この文頭にある山形県の“エデンの園”に、当時私はとても心ときめいた。
その置賜地方にある川西町で、細々と栽培されていた赤い色の大豆“赤豆”を、見事に“紅大豆”と命名して
復活させたことはご存知であろうか。(あのエデンの園で!と私はこの紅大豆に出合った時に、キャッキャッと
喜んでしまい、豆屋のご主人はまさに目を豆のように丸くして大はしゃぎする私を見ていたが少し可笑しかった)
この紅大豆は甘みのある豆で、種皮にはポリフェノールの一種である「アントシアニン」が含まれており、
「大豆イソフラボン」、血圧上昇抑制機能の成分「GABA」を含む、栄養価の高い豆だ。広く復活させるには、
多くの努力と信念によるものでありましょうが、よくぞ、今につないで下さったと感謝せずにはいられない有り
難い豆である。豆を浸した水は赤く染まるので、その水と一緒にご飯を炊くと、お赤飯のようになる。
やっぱり豆は大事に守っていくべきだなと、思わせる。
節分の季節はいつも晩茶で炊いた豆ご飯をご様子するが、明日のお茶会は、紅大豆だの、黒豆だのといった
お豆を使って、ちょっと驚いていただけるようなお茶請けを用意して、愉快に驚きつつ、お茶で体温まって
いただこうと、準備をすすめている。
都市の交通機関は、明日のお茶会にお客様を無事運び、無事な帰宅まで守ってくれるだろうか。
これからの天気によるところだが、どうぞご無理のないよう明日のお茶会の参加はご判断下さいませ。
- 2014/02/08(土) 12:00:59|
- 店主の日記
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エビスグサの収穫の季節になりました。
畑一面にあるエビスグサを 剪定ハサミで切りながら 収穫していきます。

今年から 近所の方に ハーベスタをお借りして 脱穀しています。
その後の 選別が 時間のかかる作業です。

今年も たくさんの方がお手伝いしてくれ、順調に 作業が出来ています。

今年の実りに感謝です。 尚美
- 2014/02/08(土) 00:17:07|
- うみ風からの便り
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