山からのたより その31 2021年秋の巻
「日本の木を使っていくこと」
池谷キワ子
清水茶寮のみなさま長引くコロナ禍でいかがお過ごしですか。
山はもうすっかり秋です。異常気象を生む二酸化炭素、その削減には一日も早く少しでも多く取り組んでいかなければならない課題です。一方、樹木は空気中のCO2を炭素としてその身に取り込み、燃やされるまでずっと蓄え続けています。
これから書くことは清水茶寮の皆様はもう十分ご承知のことでしょうけど、次々やってくる未曾有の異常気象を思うと書かねばいられなくなりました。
先日新聞で住宅会社が国産材100%を使った家を推奨し、壊される家からの廃材再利用も進めているという記事をみました。海外からたくさんのCO2を排出して運ばれてきた外材を使用するより、身近な日本の木材を使っていく方が脱炭素にも大きな貢献です。日本の工場で生産される非木製の建材でさえも、国産材を製材するのに比べれば、その工程でかなり大幅にCO2を生みだしているのだそうです。
「木造の家は都市の森」とも言われ、建築に木を使うこと、廃材を再利用することは、さらに長く木材が炭素を貯留し続けることです。その上使い古された廃材の味わいは、時間を経たものの持つ古色蒼然とした風情やぬくもりがあり、それが塗装のない無垢の木だと、木目もきわだって美しいのです。
多摩地域でまっとうに育てられた材を「多摩産材」と名付けて認証する制度は、10年以上継続されてきました。東京のCO2を吸収してくれた樹木です。が、その認知度が一向に進んでこなかったのです。私もその制度を推進する委員の一人なのですが、この度その呼称を再検討し、新たに「とうきょうの木」と決まりました。起伏のある東京都心の土地は山の手と言われ、昔は「四谷丸太」の産地であり、「武蔵野の雑木林」は薪炭や落ち葉の畑作肥料として人々に利用されてきました。街路樹を好み、庭木や生け垣、鉢植えの草花、身の回りに緑を纏うのが日本人の志向です。近頃は新たに東京湾に「海上の森」も出来ましたから、ふさわしい名前になったと思います。適切に管理された森林からの材が、流通経路、トレーサビリティを明確化して消費者までしっかり届くよう、このブランド名をさらに強力に広めていくことになりました。

日本では古来から、誇れる木の文化があらゆるところにあったのに、近年、急速に見放されてしまいました。建築では欄間、鴨居、丸窓、床の間、その周辺の組子や木彫り、家具や食器に漆の塗装なども、建具師や経師屋さんの出番が減り技術が廃れています。生活の洋風化も原因でしょう。
私の生家である養沢の家には、明治40年建立の純和風造りの離れ屋があり、トイレが漆塗りです。旧式の造りなので、今は使っていませんが。また、ケヤキの一枚板の門には漆が塗られていました。今ではすっかり無垢材の風情なので、昨年、天然性塗料を塗ってもらいましたが割れが生じてきています。CHINAが陶器を意味し、JAPANが漆器の意と聞きます。漆はいまではほとんどが中国製とか、耐久性のある優れた素材で大事にしていきたい伝統文化です。
近年は船、橋、柵、階段、電柱の屋外建造物が、木製だった時代から抜け出し、長持ちし腐らないという利便性を誇ってきましたが、プラスチック、コンクリートの廃棄物が消滅しないといった危険性にも直面することになりました。プラゴミのチップが海水や魚の内臓に含まれているのも大きな問題です。
一方、木の効用は果てしなく、香りには薬効があり、夏涼しく冬暖かい素材で住み心地もアップします。人間の心に潤いをもたらす樹木草木、自然界の生き物にふれることは、精神の均衡が保たれるのだという気がします。
ただ、こうは言っても木材には、腐りやすい、重たい、反ったり変形したりする、といった弱点もありますが、実はそれが長所にもなっていて、吸湿作用とか、繰り返して造ることで技術の伝承にもつながっています。木ばかりでなく、紙、土、砂、漆喰、布、という日本建築の天然素材はゴミにならないのです。
近頃のウッドショックと言われる木材価格の一時的高騰はコロナの影響です。流通の滞り、米国の需要増大から起こったようですが、日本の山からは伐採搬出の生産性が悪く、すぐにこの波に乗りにくいのが現状です。複雑な山の地形、技術者の衰退、細切れの所有形態も一要因になっていて、林業が長年の低迷から脱出するためには、ゆっくりと目指す方向を定めて進めていくのがいいのだと私は思っています。
<夏から秋へ山を彩る花々の写真を送ります>

シュウカイドウ8月

キバナアキギリ8月↑

キツリフネ

養沢川沿いネムノキ7月


ヤマユリ7月 根が美味しいのでイノシシの食害により山ではほぼ全滅

金剛の滝 手前にイワタバコ

ブルーベリー8月 今年は収穫が少ない

ツリフネソウ

クサギの花 八月中旬

キンミズヒキ

ホタルブクロ ホタルの飛び交かう
7月上旬
- 2021/09/02(木) 11:32:09|
- 山からの便り
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山からのたより その30 2021年春の巻
本を出版した!! 池谷キワ子
清水茶寮のみなさま、お久しぶりです。長い間ご無沙汰いたしました。
昨春に自費出版で本を出しましたが、その経緯をここに書いてみることにします。
林業の友人が以前から「今まで書いてきたものを本にしたら」と勧めてくれていたのですが、
同じようなことを繰り返し主張してきただけなのでとてもその気になれないでいました。
ところがそらあけの会のO氏もそう言い出してきて、私も急にやる気になり、
取り掛かったのが19年夏のことでした。彼も私も出版の経験がなく手探り状態からです。
ちょうど自社の記念祭を開催していた清水工房という出版社に出会い、
ここは自費出版も多く手掛けていて、八王子という近さもあり、お願いすることに決めました。
最初の打ち合わせをO氏と養沢でしていたとき、そらあけのYさんも同席していて、編集に参加してくれることに成りました。
彼女の明るい人柄が座を和ませ、編集会議はトントン拍子に進みましたが、
古い保存コピーの中から掲載したい文を拾い出すことに私は手間取っていました。
そこで二人は、採用する記事の選択にも乗り出して、必要なリライトまでしてくれました。
山の現場の写真をたくさん載せようと決め、溜めてパソコンに保存していた写真を選択吟味するのも
思いのほか時間を取られることでした。残念なのは、一代目のパソコンがバリバリと音を立てて壊れてしまって、
森林ボランティアが山仕事を始めたころの写真がすべて消え去っていたことです。
担当の清水工房 増沢氏も遅々として進まない私にしびれを切らす風でもなく、
編集者二人も多忙の合間を縫って調布の我が家に集まってくれてのんびり歩調でした。
表紙写真の選択、題字はだれに頼む、見出しの大きさはと試行錯誤が山盛りにあるのが編集と未熟者の私は知りました。
だから本作りでは言葉に尽くせないほど三人にお世話になりました。
清水茶寮ホームページとそのほかのメデイアに載った文とを合わせ、やっと校了になり
『山からのたより―養沢で林業とともに』として20年4月に本が出来上がってきました。

(裏山の150年生のスギ林。明治元年 5代前の池谷次郎平が植えました)
出版時にはコロナが猛威を振るいはじめ、そらあけの会も活動中止となりました。
そこで、そらあけの会ほか林業でお世話になっている知人友人すべてに郵送したら、在宅の方が多かったせいか、
普段なら目を通してもらえなかった人もページをめくってくれたようで、思いがけないほどたくさん感想文が届いてきました。「木を育てる苦労や面白さには知らないことがいっぱいあった」とありました。これは私の大事な宝物となりました。
山の人たちのリアルな日常も書きたいと思うものの、個人を名指しであからさまにすることは躊躇があって、
興味を持って読んでいただけそうな記述は難しいことでした。
でも、山仕事のプロ「ユウさん」に関しては鬼籍に入ってしまっていたので、かなり率直に記述でき、
謝りたいようなことにもふれてしまっています。
そして、なんといってもこの本が出来たのは、清水茶寮が長年にわたって私の文章をホームページに
掲載してくれたことにつきます。この連載は、ただ身近なことを書き留めただけのものも数多くありましたが、
白井啓子さんはおおらかに書かせてくれたのでした。
山のことを知ってほしい、林業を広めたい、結果として東京の森林をいい状態にして子孫に渡したい、
いつもそう思ってきたら、芋づる的に人の縁がつながって白井さんと出会えたのでした。
この本の内容のほとんどを森林ボランティアの話題が占めています。
彼らが我が家の山に登場してくれなかったらこの本は出来なかったでしょう。
最初のグループの登場は1996年の「林土戸(りんどこ)」でした。
みんなで山に入るのは気分がよく、手入れに応えて育っていく樹木は子育てのような充実感があると言っていて、
ついで1999年には「そらあけの会」がスタートしたのでした。
このところの温暖化現象は豪雨や雪害の被害を増やしています。
積み木崩し、砂上の楼閣という言葉が浮かび、いつも新規まき直しとなってしまうのですが、
林業はもともとそういう性格を持つ仕事で、長年の辛抱強さが求められるものなのです。
建材としては寸法が狂ったりすると今では嫌われている材木ですが、それは木の調湿作用であり、長所なのです。
炭酸ガスを炭素としてその身にためこんで燃やされるまで放出されないことで「木造の家は都市の森」とも言われます。
その上、木の芳香が人体に優しい作用をする、このホームページは林業広報の役目も担ってくれたと思います。

(五日市名産「のらぼう菜」の収穫)
先日、林業家で植物博士の菱山忠三郎氏が『高尾山の麓からー自然を見つめて』(清水工房\1700)と
題する本を上梓され、私にも贈呈していただきました。氏は野の花の案内書も多く出版され、
高尾山が目の前の八王子恩方在住です。
楽しい身近なエピソードがいっぱい詰め込まれていて、ぜひ一読をお勧めしたい魅力的な本でした。

(養沢川が秋川と合流する落合集落)
その中に「生き物の、生きる命を大切に」とありました。この言葉が高尾山の林内にずっと掲げられていたそうです。
自然に中の植物や動物を人間と同等に思ういやそれ以上に、地球の先輩と感じるこの言葉に、私はとても心を打たれました。

(山をくだるそらあけの会)
自分史を出すことは、本離れが進んでいるこのごろ、特に私のように狭い話題の拙い書きぶりではいかがなものかと
思っていましたが、個人的に作者を知っている人には、興味を持って読んでもらえるものだとわかりました。
直接お話しできない人にも自分の思いが伝えられます。数を抑えて発行したため、回し読みもして貰いました。
これも知人同士が中身を共有できて話題性を作ってくれました。ローカルな小さいメデイアが記事にしてくれて
伝播性も生みました。
本も出したら終わりでなく「そらあけの会」が取材を受けたりと、人のつながりも生んでいってくれたのでした。
出版ばかりでなく、山作りすべてにわたって大勢の方のお世話になってきたこと、本当に感謝が尽きません。
それにしても冊子「山からのたより」の在庫が底をついてしまってもうお分け出来ないのは申し訳ないことです。
最後になりましたが清水茶寮のみなさま、十分に身辺をガードし、コロナに負けないで冷静に過ごし、
なにか出来ることを手がけていきましょう。この経験から生きていく価値基準を新たにつかんでいきたいものです。
- 2021/05/07(金) 10:29:34|
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山からのたより その29 2019年初秋の巻
山の木を出荷するとき 池谷キワ子
清水茶寮ホームページ読者のみなさまこんにちは。
もっと早くお便りするつもりでしたのに半年が過ぎてしまいました。
夏が色あせてくるとほっとする一方、あの暑さが懐かしいような、なにかがこぼれ落ちたような、
うら寂しい気分があります。
林業をしているのに、いままで木を販売することをお話ししてきませんでした。
近頃は我が家のように区画が狭い林分を売ろうとしても、代金を手にすることが難しく、
ずいぶん長い間売り払っていません。
そこで30年前の父の頃のやり方を思い出し書き綴ってみることにしました。

(林齢70年のヒノキ林、それ以上の林齢になって出材可能となる)
板を首からさげた父が林内の中央にいて、まわりで叔父と私が木を測っています。
「目通り」(目の高さで木の周囲採寸)をメジャーで測って大声で父に叫びます。すべて尺貫法です。
「ヒノキで1尺7寸!」「スギ2尺3寸!」という私たちに、
父がこだまのようにくり返しながら板の表に記入していきます。
今度は「スギ、にしゃまる~(二尺0ちょうど)」「ヒノキで尺五よ~」と独特な調子をつけて唄うように叫びます。
父がそっくりの口調で確認のオウム返しです。
測った木にはぐるりと白チョークでマークする、この木は測量済みとどこからでもわかるための印です。
こうして売ろうとする林内の残らずの木を毎木調査するのは、これからこの立木を素材生産業者に
売り渡したいからです。いまでは、ここはヒノキ、こっちはスギといっせいに植えていますが、
50年ほど前までは適地適木といってこの二種をミックスして植えてきました。
多摩地域では育ちあがった木を売ろうとなると、まだ山に立っている状態の木(という)を
素材生産業者に買い取ってもらい、業者が伐採し出材して(伐出という)丸太の市場なり製材所なりに
販売することが多いのでした。
当時我が家は尺貫法を使い、1尺5寸から1寸刻みに区分けした表に正印を父は記入していきます。
測り手は急斜面に沿った木の上部に取りついては、目の高さで木に巻き尺を回して太さを測るのです。
急斜面の林内を上下に駆け回っての採寸はなかなか手間がかかります。
少しでも曲がりのある木、いびつな木は表から除外し、通直完満、まっすぐな樹木だけのカウントなのです。
1尺5寸に満たないのも玉下と呼んでこれも除外です。
私は「1尺9寸曲がり」と叫んで、「木は工場で作るようにはいかないのにね」とわずかな曲がり木でも
厳しくはねられるようになってしまったのを嘆きつつです。
帰宅してからは、「玉帳(ぎょくちょう)」と呼ぶ立木採寸表により、立木がどの位の利用材積があるのかの計算です。
丸太として利用できる部分が一体何石なるのか、木を4mほどにぶつ切りして丸太で出荷するのですが、
一玉、二玉までか、三玉までとれるか、そうとしたらそれは容積がどうなのか、まだ立っている木なので
平均の細り率で計算し、全体でどれだけの石数になるのか、数字を出すのは経験が必要です。
市場の単価はどれくらいか、業者の伐出単価はどれほどになるのか、さまざま勘案し売値の推定をしていきます。

(秋は伐採の時期。11月の養沢川)
1石=1尺×1尺×10尺=0.28㎥)・・・1尺=30.3㎝
(尺貫法、メートル法に統一されたが使い勝手のよい単位である)
いよいよ商談になります。玄関のテーブルにおかれた大そろばんに父が売りたい数字をいれる、
その珠を業者のおじさんが下げおろす、「この程度でないとねえ」とまた父がいくつか珠をいれる。
その繰り返しと理由づけが飛び交い、父は手入れと素性の良さを、業者は搬出の経費高や立木の
難点をあげつらうのでした。
業者は「このくらいにしていただかないと到底」と冷え切った市場のこの頃を言い張る、
こちらも「枝打ちは適時によそより高くまで打ちあげていて、谷筋だから木の伸びも十分だし」とか言います。
彼は養澤出身で、一代で製材所と素材生産業を築きました。
山を見渡せばどんな材がとれるかの経験と勘がすぐれていて、木を見る目が半端ではなく、いつごろ枝打ちしたか、
芯黒の材が出ないか、苗の時代からの素性はどうか、林内を一目見ただけでわかり、
その上買おうとする林分をくまなく踏破して調べ尽くしているのです。

(枝打ちは最低でも地面から4メートル高まで、以前はすべて6メートルしていた)
あのあたりの木は曲がりが多い、あの木のうろ(空洞)は上の方まで通っているなど。
あまりあげつらわれると、つい「木は生きているのだから、少しは傾いだり捻じれたりするのよねえ」と
心の中で木の肩を持ってしまいます。
かなりの値引きの後、業者のおじさんは「売らないと言った境の太いやつを付けてくれるのなら、
おっしゃるこの値で手を打ちましょう」と畳み込んできて、しぶしぶ承知となるのです。

(9月になって林内にはシュウカイドウが咲きだしました)
近年は買い手市場で、私たちは弱い立場です。丁寧に世話をしても、たくさんの短所をあげつらわれる、
悔しいところです。だから私の代になってからの取引は、父のように余裕をもって楽しげに商談はできませんでした。
ねばるつもりでいてもこれ上無理かなと早々に手を打ってしまい、ずいぶん後悔したこともありました。
その後さらに市況も悪化して伐出経費がかさみ、作業路の入らないところは赤字寸前となり販売はすっかり細って、
その後途絶えてしまっています。
もし市場で丸太が30%下落すると、伐出費は変わりませんから私たちにとっては時に60%70%の値下がりになるのでした。
売値が折り合うと、座敷で母の手料理を業者と父が囲み一杯となります。この席の話題はすべて山のこと。
林地事情、丸太の市値、出材の難しさ、この頃の気象の不安定さ、危険をはらむ現場作業のこと。
でも商談がまとまってとりあえず二人はご機嫌でした。
さて、林木が人手に渡って、すぐ伐採が開始されるのが常です。
養澤のあたりは作業路が入っていませんから大抵は架線集材で、伐採地に業者が新しく設置した
架線ケーブルを伝って丸太となって降ろされたスギ、ヒノキは、にわか作りの土場(磐梯(ばんだい))に山と積まれ、
近くの多摩木材センター、はるかに遠い関西の値のいい市場、近隣の製材所など、行く先を熟慮して
仕分けされ運ばれます。関西では良木の評価が高いのです。そして、業者の手に渡ってしまってからは、
何十年と手塩にかけて守り育てた木も、だれがどう使うことになったのかは皆目わからないのがちょっと寂しいことです。
伐採跡地に目を向けると、枝葉が散乱し、がらんとなっていて、一人前に商品となって買われていったのを
喜ぶべきなのに、なんだかむなしい風が吹いているように見えます。
大事な娘を嫁入りさせた親の心境です。
そうはいっても、祖父、父、時には曽祖父が植えて育てて守ってくれたからこそ今日の出荷があるのです。

(伐採跡地の様子。写真は枝葉を寄せ集めた「」もされていて、すでにスギ苗が植えられている)
だから私もこの伐採跡地に来春の植え付け時期には新植して、木を育てることを続けなくてはいけない、
どんな時代が来ようともと固く心に誓ってしまいます。ただ、この覚悟だけでは林業の存続は難しい。
木を使うことがどれだけ 「いいこと」 が多いかを知ってもらい、また生業として時代に合ったやり方を探らなくてはと思っています。
- 2019/09/13(金) 15:18:07|
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山からのたより その28 2019年冬の巻
昔の人が甦ってくる 池谷キワ子
清水茶寮のみなさま、いつもこのページに書かせていただき嬉しく思っています。立春を
過ぎて気温の差が激しく、冬もまだ居座っていたいようです。空の狭い養澤は日照時間も
短いのですが日脚は隔日に伸びてきています。

(春一番に咲くフクジュソウ)
昔生きた人が再び今の時代に甦るということがあります。前回の「その27五日市憲法」に
登場した千葉卓三郎や深澤権八は、50年前の憲法発見時に現れてきましたし、また近年、
皇后さまの五日市憲法への評価のお言葉や新井勝紘氏の関連新書発刊で世の話題となり、
二人を再来させました。歴史上の人物は、その時代の価値基準で、評価が上下しますが、
千葉と深澤は脚光を浴びる毎に輝きを増し、評価が上昇しているのは確実です。
羽村市では、千葉卓三郎たちの五日市憲法ストーリーをDVDに撮り、中学生には社会科
の副教材として地域におこった歴史を身近に感じてもらおう、市民には、いま目前の案件
になっている憲法改正について考えを深めてもらおうという試みをはじめました。この二人
が今の世に戻ってきて現代の女子学生と話す設定だそうです。4月に完成するのを楽しみ
に待っているところです。
ところで私の卒業した養澤近くの「小宮小学校」は、学童数が減って創立138年で数年前
廃校になってしまいました。郷土史研究家の石井道郎氏から「小学校前の『若松屋』って
なぜその名なのか知っていますか」と問われ否でした。
お話しによると、明治六年「日新学校」の名で開校した小宮小学校は、当初の校長が『名
校長として村民に厚く尊敬された堀内瀧江先生』(五日市町史)でした。堀内は元会津藩
士で戊辰戦争に敗れて単身この地に移り住んだのです。ずっとこのあたり唯一の店だった
「若松屋」は、この家の住人だった堀内が会津若松の出身だったことから、譲り受けて店を
開いた当主が命名したのだそうです。子供時代の私たちは、常時たむろして文房具をはじ
め日用品を買い求めた懐かしいお店です。堀内瀧江の大きな顕彰碑が旧道脇にあるのを
最近知って、当時の村民の深い感謝を知りました。それなのに後日この学校に学んだ私た
ちが、彼の献身ぶりを何ひとつ知らされてこなかったのはどういうことでしょうか。会津の悲
劇があった戊辰戦争では多くの会津藩士たちが各地へ散ったのでした。堀内瀧江について
はこれからも調べていくつもりです。すぐ足元におこった歴史を知らず、「廃藩置県」とか「大
政奉還」とか「字づら」だけの勉強だったと思い知らされることです。

(「堀内瀧江」顕彰碑・裏面に瀧江堀内とある・高さ約3メートル・乙津竹淵の忠魂碑の左)
明治2年には国の奨励した「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)で、私たちの養澤村ではお寺
「養澤寺(ようたくじ)」を捨てました。多くの過去帳や仏さまも川に流したそうです。建物は
その後学校のひとつになり、今は自治会館になりました。それ以後神道です。
仏教を捨てなかった乙津村と合併して、明治20年ごろ小宮村は生まれました。西多摩一帯
が、神奈川県から東京都へ移管されたのもこのころでした。自由民権運動の広まった五日
市憲法誕生の14年のころから、大日本帝国憲法の発布の22年へは思想的なことが極端に
動いていた時代でした。

(養沢寺の敷地。歴代の住職の墓跡が放置されていたが再建された)
もう一つお伝えしたい養澤の歴史があります。江戸時代中期のこと、五日市村と養澤村の
紛争です。まだ養澤の山は雑木林が主体で、薪炭を五日市の市(五の日に立つ)で売りさ
ばいて生活を立てていたころ、市の運営で力を得た炭問屋たちに養沢の人々は牛耳られ、
薪炭の値段を低く抑えられたうえ、得たお金で買わねばならない油などの日用品は高騰
したのでした。「これでは生きていけない。集落全体で夜逃げするしかない」と訴え出ました。
「少しは値のいい五日市の先の伊奈の市にださせてくれ」とか「養澤の馬(振り分け荷物で薪
炭を積んだ)は横根峠を越えていくのだから、五日市から伊奈への権田坂などものともしな
い足腰強さだ」と切々と何度も訴えるのでしたが、権力を握った五日市に押しかえされてしま
います。当時の訴状がいくつも残っているなかに、我が家の祖先、年寄「次郎右衛門」も名を
連ねていて、この事件が我がことのように私には身近に感じられるのです。
スギヒノキを育成して商品にするのは、薪炭林よりさらに多くの年月を要するけれど、雑木林
を切り開いて人工林として造林にしていけば、子孫が少しでも潤うのではないかと、周囲の集
落より早く養沢が試み始めたのは、この訴訟にまつわる苦い経験があったからでした。また、
一致団結する力を強めて、共有林をたくさん作ってきました。だが、いまではこの共有林システ
ムが足枷(かせ)になっています。この理由はまた別の稿で触れます。
昔を知るたびに当時の人々が再来するのを感じるのです。

(養沢・怒田畑ぬたばた集落)
- 2019/02/14(木) 21:17:23|
- 山からの便り
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山からのたより その27 2018年秋の巻 地域で生まれた近代遺産『五日市憲法』 池谷キワ子
清水茶寮のみなさま、しばらくです。ここ一年、身辺にいろいろ起こってしまい、その上自身の高齢化とで、
すっかりご無沙汰になってしまいました。
ほんとうに災害続きの日本。特に大雨や地震で山崩れや崩壊が起きると、山を管理している私には
身を削られるように感じられます。北海道胆振東部地震の厚真町の山は、写真でみてもほんとうに
無残な姿ですね。今回は旧五日市町に残されていた『五日市憲法』のお話しを書きます。
深澤集落に咲く「白花ホトトギス」10月8日

50年前、五日市町郊外の深澤集落(旧深澤村)の古い土蔵から、『五日市憲法の草案』が発見されました。
自由民権運動が高まりを見せたころの明治14年に『千葉卓三郎』という29歳の若者が起草したものでした。
数年前、五日市を訪れた皇后さまが、その年特別に印象に残ったことがらとしてこの『五日市憲法』のお話
をされました。その一部分を宮内庁の資料からここに転載させていただきます。
~前略~
「明治憲法の交付(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き
上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、
更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。
当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代
日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘
を覚えたことでした。
長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界
でも珍しい文化遺産ではないかと思います」(宮内庁HPより)
この草案の発見者の中心であった新井勝紘氏が、その内容、背景、氏のその後の歩みについて記したのが、
このたび発刊された岩波新書の『五日市憲法』です。明治22年に伊藤博文らによって作られたいわゆる
『大日本帝国憲法』に比べてみても、明治14年作成のこの憲法は優れた部分の多いと言われ、なによりも
自分たちの手でこの国を担っていこうという情熱から生まれた一般市民による憲法草案だったのです。
当時は自由民権運動が高まりを見せ、多くの草案が民間で作られました。お互いを参考にしながらそれぞれ
がオリジナルな部分の精度をきわめて書かれています。特に『五日市憲法』は、国民の権利の保障する立法権、
それを裏付ける司法権、この部分が秀でているのだそうです。
五日市憲法を起草した『千葉卓三郎』は宮城県栗原市の仙台藩士族の出生で、五日市小学校の母体となる
勧能学校の校長になりました。新井氏の著書によると、五日市に来るまでのまで卓三郎は、12歳で家を出て
から、儒学を学び、戊辰戦争も参戦し、ハリストス正教会でニコライの下で洗礼を受け、ラテン塾やメソジスト
教会でキリスト教や外国語を学び、商業にも手を染めるという貪欲な学びの青年時代を送ってきています。
五日市での千葉氏を献身的に支えたのが、地元の『深澤権八』で、五日市のとなり、旧深澤村の素封家の若い
当主であり、五日市地域に『学芸講談会』という組織を千葉とともに作り、20歳の若さでリーダーとして討論会や
演説会の活動を推し進めました。たまたま、この会のメンバーに私の曽祖父池谷精一も名を連ねていたのでした。
でもほんとうに残念なことに、千葉卓三郎は草案を完成させてまもなく31歳で結核により亡くなってしまうのです。

「五日市憲法」が発見された土蔵と深澤家の屋敷跡
発見当時より修復されています。卓三郎の写真はスナップが一枚のこされているだけで、
それもおもざしがはっきり写っていません
卓三郎が憲法草案を作り出すことができたのは、五日市という土地の文化の高さやこの地での民権運動の
高まりがあってこその結果だと新井氏は述べています。そのころの五日市は五の日ごとに市が立って、周辺
から人々が集積し、経済的にも豊かで進取の気性があり、「村は小なりといえども志は高く・・」の地でした。
権八の生まれ育った深澤集落は五日市から数キロ離れた山奥ですが、権八は多くの新刊書を購入できる
ゆとりがあり、27歳で神奈川県(当時五日市は神奈川県)の県会議員にもなっています。

五日市町史より撮影。
千葉卓作郎自筆の蔵書メモ。土蔵から200冊余り、ほかに記録には170小冊余り、
権八の所有本がありすべて外国憲法、法律関係、外来思想。卓三郎が学んだとされる。
卓三郎を全面的に支持した深澤権八は、卓三郎死後、遺品の中にあったこの憲法草案を譲り受け、
土蔵に大事に仕舞いましたが、権八も卓三郎の死より7年ほど経ってから29歳の若さでこの世を去って
しまいます。五日市憲法にかかわった二人が三十歳そこそこで生涯を終えなければならなかった、その無念
の思いには胸が痛みます。この二人の夭逝で、卓三郎が心血を注いだ憲法は世に開示されず、権八は憲法
の存在を子孫に伝えていけなかった、このため草案作成から86年も経って、「開かずの土蔵」だった深澤家の
蔵を精査した新井氏たちにより、やっと日の目をみることになったのです。草案そのものが「私を発見して!」と
無言の秋波を送ったからではないでしょうか。

五日市憲法草案の碑 五日市中学校
皇后さまのおっしゃるように、日本の近代化黎明期に、自らの手で政治をと真剣に考える若者がこの草深い
田舎にいて、『学芸講談会』として大勢が参集し、熱い議論を交した、そしてそこから『五日市憲法』が生まれた
ということを、私は地元人としてとても誇らしく思えるのです。
参考・・町田市立自由民権資料館、五日市郷土館
「五日市憲法」新井勝紘著 岩波新書
「五日市町史」昭和50年刊行
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深澤家跡すぐ近くに『深澤小さな美術館』があり、建物、彫刻、絵画、鯉の泳ぐ湧き水庭園がすべて
造形作家・友永詔三氏の手作りで、個性豊かな楽しいスポットになっています。
- 2018/10/14(日) 00:55:32|
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山からのたより その26 2017年晩秋の巻 蛇に出会ったこと 池谷キワ子
今年の夏も前半は暑さいっぱいで、後半は雨の多い日々でした。それでも
東京エリアは豪雨をまぬがれましたが、九州はひどい災害にみまわれました。
10月も雨ばかりの日が続きました。極端な気象です。
清清水茶寮のみなさまお元気でしたか。今回はヘビのお話しです。

写真上 7月、庭に自生するヤマユリ
写真下 8月、ささんた小屋裏に咲いたキツネノカミソリ

私たちがその巨大なヘビに出あったのは、10年も前の秋も深まって木の葉も落ち始めたころでした。
まだ女性ばかりだった「そらあけの会」一行が枝打ちに通っている林地にとりつくために、大岳沢を
石を跳び越しながらわたっていたときでした。先頭にいた私がいつになく、「キャーッ」と黄色い声を
張り上げてしまったのです。沢岸の曲がりくねった太い枯れ枝にからみついて、橙色がまだらには
いった太いヘビがこちらを睨んで、赤い舌をチロチロと出していました。
見たこともないほど大きく太く、何か平たいものを飲み込んだかのようにコブラ状に首もとがさらに
太く平らになっていました。
「だれかが南洋産のペットをすてていったのかもしれない」私は見慣れない大きさのヘビにそんなこと
を口走ってしまいました。多摩の秋川上流にあるこの集落は、都会から車に乗せて来ては捨てられる
さまざまな動物に悩まされていたのです。
「それだったら大きい石なげて殺してしまおうか。こんなのが増えたらたいへんよ。」
メンバーのひとりが震えながらも意を決したようにいいました。とにかく、あまり手荒なことはしないで置
こうと、カメラを持っていたリーダーが、腕をいっぱいに伸ばして、何枚かシャッターをきりました。大蛇は、
私たちが立ち去るまで、赤い舌をふるわせながら鎌首をもちあげて威嚇しつづけていました。遠巻きに
しのび足で通り抜け、私たちはそのヘビとお別れしました。
山に棲むどの動物にとっても人間ほど怖いものはないのだろう、私たちはクマやスズメバチをひどく恐れ
ているけれど、鉄砲でズドンとやったり大事な巣を薬噴射で叩き壊す人間は、相手にとってもっと恐ろしい
のだろうと考えつつ急斜面をヒノキ15年生の枝打ち現場へ登りました。
何日かして、林業家で山のことなら何でも生き字引のK氏のところへ、写真を持ってお訪ねしました。
「これは正真正銘の《ヤマッカガシ》だな。大岳沢の主みたいなやつだ。首の部分が平べったく太くなって
いたのは、怒っていたからなんだよ。」
石で殺さなくてよかった、でももう、ふいにでくわしたくない、遠くからならちょっと逢ってみたいけど、
と思いながら、太い「たんくる」(丸太)が威勢よく暖炉で燃えているK邸を後にしました。

写真上 大岳沢
写真下 文中の大岳沢で出会ったヤマカガシ。直径10センチほどあった。撮影 岡根陽子

「ヘビ」、誰もがその姿にはゾクッとさせられます。一度見たら忘れられない様子は、実は造形的には
すばらしいのかもしれないし、そのたたずまいを見ると、本人は相当誇り高いのではと思えてなりません。
以前はそこかしこにいたアオダイショウ、マムシ、シマヘビ、ヤマカガシ、ジムグリなどもこのごろは
見かけることが少なくなりました。でも、恐竜のように、標本の世界に入ってしまっては二度と見られず、
取り返しがつかないことです。
我が家の茶の間を改修するまえのこと、大きなアオダイショウが天井から落ちてきたことがありました。
父が落ち着いて棒に挟んで、裏庭に放り出しました。また、ひとりで林道を運転していたときのことです。
石ごろの路面で、のうのうと昼寝中だったヘビが、目と鼻の先になって車の接近に気づき「がばっ」と
鎌首をもたげ、もんどりうって路肩に逃げ去ったことがありました。爬虫類の日向ぼっこは体温を上げて
活動するために必要なのでした。
山作業のプロ「ユウさん」がボランティア「林土戸」(りんどこ)相手に林業の師匠をやっていたころでした。
作業現場に登っていくと、割った小枝に頭を挟まれて観念しているマムシが、こっそり岩陰の地面に刺して
ありました。林内での昼食後、ユウさんは、沢に降りていってそれを三枚におろし、たたき状にして葉っぱ
に盛り、メンバーにご披露したのです。みんな我先にと腰を上げ、無言で枝打ち地点に上がっていきました。
ところが残った美人OL嬢が口に入れて「おいしい!」と言ったのです。彼女はその切り身をお弁当箱に入れ
て持ち帰りました。ユウさんはといえば、肝を飲んだとか。私は豆粒大を食べようとしたら何とも言えない
マムシの匂いに圧倒されてしまったのでした。
思い出せば幼いころ、やせっぽちだった私は、マムシの粉を飲まされたことがありました。父が、生けどりに
したマムシの頭を釘で板に打ち付け、ウナギのように切り開き、竹串に刺し、囲炉裏であぶってカリカリにし、
薬研(やげん)で粉末にしたものです。
写真 カエルを飲み込んでいるシマヘビ。2017年6月 撮影 岡根陽子

森林には宅地、田畑、野原にはない食物連鎖による生物生態系が構築されています。でも近年は
その自然のバランスが崩れて、絶滅しそうなもの、増えすぎてしまったものが現われ、わたしのまわ
りでも幼木を食い荒らすシカ、畑を我が物顔に餌場にするイノシシ、サルが増加し、ツキノワグマまで
集落を訪れるようになりました。こうなっては林業はますます持続不可能です。シカでは東京都でも、
さまざまな対策に取り組んでいますが、例に漏れず減少に向かったとは聞かれません。
あらゆる生命体が均衡を保って林内に生息し山をシェアーしていく、豊かな森林とそれに並行して成り
たっていく林業、そういう未来の山にしなくてはと、ヘビのことから連想して思ったことでした。
- 2017/11/12(日) 20:02:52|
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山からのたより その25 2017年夏の巻
出陣学徒「さん」の消息を尋ねて
池谷キワ子
今回は山から離れた話題です。最近とてもこころを動かされた出来事がありましたので記してみます。
先の大戦から70年余という長い時間が経ち、体験した人も少なくなりました。
でも何十万人、何百万人の若者が戦争で将来を絶たれてしまった、今後決してあってはならない、
伝え残したいことです。
60年前の高校時代の恩師「兵頭信彦先生」は小金井雑学大学で西洋史の連続講座を
昨年まで20年近く続け、その歯切れのよさ、わかりやすさに好評をはくしてきました。
私たちクラスメート数人は毎回出席して、昔と寸分変わらないお話しぶりを懐かしみ、
終了後先生を囲んでミニクラス会を開いてきました。

(写真・小金井雑学大学・2015年)
3年前その講座に、小林宏夫妻という方が訪ねていらっしゃいました。
『戦死した兄・小林蕃(こばやし しげる)は兵頭信彦先生宅に下宿していて、
一橋大学(当時は東京商大)から学徒出陣しました。
出陣から70年を機に、出陣学徒の遺品を展示することになり、故郷に兄の遺品を探しにいったのですが、
戦災でほとんどが焼失してしまっていました。ただ一つ、一年先に学徒出陣していた兵頭先生が、
軍隊から兄に送ったハガキが出てきたのです。
なんとか兄の足跡をたどりたいと、ネットでこの講座を探し当ててやってきました』とお話しになりました。
その後小林夫妻は、兵頭先生の戦争体験記「カーキ色の青春」(これは未刊の記録です)を読み、
年2回の小金井雑学大学講座に通ってきていました。
昨年の16年11月、「アメリカの発展とイギリスの繁栄」という小金井雑学大学講座の折、
先生は自ら学徒動員された時のことを余談として熱心に語ってくれました。
『同じ町内(国分寺町平兵衛新田、現在の国分寺市光町)に住む3人の学生が同期の出征兵士となりました。
中のひとりが一橋大生で潮田脩君といい、南方の戦地に向かったがあえなく戦死してしまいました。
戦争が終わって潮田君の家にお悔やみに行ったのでしたが、母上のお嘆きは深く、
いたたまれないほどで、声のかけようがなかったのでした。
一方自分は、この歳まで生き残った。いったいどういうことなんでしょうか。
戦争が終わったらそれぞれの大学にかならず帰ってこようと言い合ってもいたのでしたが』
先生はよく戦争体験のことを講義のなかに織り込んだのでした。
「カーキ色の青春」は私たちクラスメートも回覧しあい、ほとんどが記憶のなかから書き
起こしたというその内容は、次代への伝言であり、戦争の貴重な資料であると感嘆したものです。
その冒頭の部分に潮田君のことがでてきます。
少し長いですがご家族の了解を得ましたので引用いたします。
「カーキ色の青春」(兵頭信彦著)より抜粋
昭和18年11月30日、秋晴れの日であった。
午前10時、町の青年団員数名が、団旗を先頭に押し立てて門前に整列、
「兵頭信彦君、入営万歳!」を三唱して出迎えてくれた。東京帝国大学制帽を被り、
黒の学生服に、祈武運長久兵頭信彦君、と日章旗に大書きされた(カッコ内は略)を胸にかけ、
青年団員に先導され、日の丸の小旗を持った町内の人々を後に引きずりながら、間もなく稲荷神社境内に到着した。
いわゆる“学徒出陣”として当地区から入営するのは3名である。
私の他に潮田君(東京商科大学2年)と越前谷君(日本大学2年)で、すでに神社境内に到着して私を待っていた。
3名揃ったところで、町内会長の司会のもとに、神前での武運長久の祈願祭が執行された。
明日からの不安な軍隊生活を思うといたたまれない気持ちであったが、それはおくびにも出さず、
日本男子の本懐といわんばかりの態度を取り続けなければならぬ自分にある種の滑稽さも感じていた。
“まあ、なるようになれ”という気持ちであった。
~中略~
一方、潮田君は船舶兵として広島の部隊に入隊することになり、母親とともに直ちに指定地に向かったが、
現地で支給された二等兵の軍服に着替えて、母親に手を振って別れたのが最後であったという。
~以下略兵頭先生は昨年11月の講義のあと体調を崩して、17年1月に93歳でお亡くなりになってしまい、
この講座が最後となりました。出席していた小林宏夫妻は、潮田さんが、お兄様の小林蕃さんと同じ
一橋大学の出陣学徒生と聞き、碑の名簿にも載ってなかったのをつきとめました。
「たぶんお母様はお嘆きのあまり大学に報告なされなかったのでしょう」と小林宏夫人の梨花さんはおっしゃり、
潮田さんについて自治体の戦時下の記録や名簿などを調べてまわりました。
問い合わせ先の一橋大学同窓会では、潮田さんのクラス写真を見つけ出し、消息も探してもらったのですが、
70年前のことゆえ、わずかしか判明しません。
また「いしぶみの会」(一橋大学の学徒慰霊碑を守り、戦没学友の歴史を継承する会)の代表の
竹内雄介氏がさらにたくさんの資料にあたって調査し、それを一枚の報告書にまとめてくれました。
その報告によると、広島の宇品港から西丸という船で戦地に向かった潮田さんは、同大の学徒12名とともに
セブ島に配属され、その後数名は幹部候補生として国内に戻っているのですが、潮田さんは船内に流行った
パラチフスにかかったらしく足止めされた模様でした。
彼が戦死したとされる19年4月19日は米軍機の猛烈な砲爆撃の中を部隊は転進中であったといいます。
400名の第5中隊では、生存者は100名あまりだけでした。
大学時代は村松ゼミ所属、兵頭先生と同じ町内の平兵衛新田の家から通学。
演劇映画研究班の幹事でもあった、以上は戦友会の名簿からわかったことです。

この写真は潮田さんの唯一の写真です。
一橋大学(東京商大)予科3年6組の集合写真の一部で、左手一番後ろの眼鏡を掛けた長身の学生が
潮田脩さんです。
17年5月20日、一橋大学佐野書院にある「戦没学友の碑」での追悼会に、小林夫妻に誘われて筆者は
行ってきました。
碑は2001年の建立で、818柱の同大戦没者の名が刻まれ、今年新しく刻銘されたのは、
「潮田脩さん」おひとりでした。いしぶみ会では年2回の追悼をずっと重ねてきています。
当日は碑の前での参拝、経過報告のあと、室内でお話し合いがあり、小林宏氏が「カーキ色の青春」の
学徒出陣の部分を読みあげ、兵頭先生からの古いハガキを示して、戦死のお兄様、
小林蕃さんからたどっていって、潮田さんの名が浮上したいきさつをお話しになりました。

(一橋大出陣学徒の碑と記名碑)

(兵頭先生からのハガキを掲げる小林宏氏)
いしぶみ会の竹内氏が、方々に働きかけて得た情報によると、潮田脩さんのお兄さんの道彦さんも
同大を18年に卒業していて、戦後まもなく病死したとのことです。
そしてその後の5月末日、小林梨花さんから潮田さんのご遺族のことが明らかになったとメールが届きました。
「いしぶみ会」の竹内氏があちこちの名簿をさぐるうち、潮田さんの姪が神奈川に在住とわかったのです。
潮田さんの母上は、長男、次男に先立たれましたが、三男の家族と一緒に後半の人生を過ごし、91歳で
天寿を全うされた由でした。
「ご母堂が孤独な戦後ではなかったことがわかり、少し安堵いたしました」
と書く「いしぶみ会」の竹内氏です。
姪の方の存在が判明したからには、潮田さんの短い生涯の様子をもう少し
知ることができるかもしれません。今秋の学園祭には潮田脩さんの足跡について発表する予定だそうです。
潮田脩さんは70年を経てようやく念願の母校に帰れました。

(記名碑最下段に載った潮田さんの名)
- 2017/07/02(日) 21:32:46|
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山からのたより その24 2017年早春の巻
山の男「ユウさん」 池谷キワ子
清水茶寮ホームページの読者の皆様お元気ですか。
東京エリアはここ一か月半ほど雨が降りませんでしたから、先日の久しぶりの雨は慈雨そのものでした。
早春の雨は命をはらんで大地に降り注ぎます。
これで春の芽吹きがいっせいに立ち上がるのです。
養澤ではこんなとき、「よいお湿りでしたね!」と声を掛けあって喜びます。

人生のほとんどを山仕事で生きてきた「ユウさん」についてが今回の話題です。
いままでも「山からのたより」に登場してもらっている「ユウさん」。
何十年も我が家の林業の現場主任として、数名を率いて山に入ってきて、
最後は父の跡を継いだ私のもとでたった一人、一手引き受けで森林ボランティアの指導にも当たってくれました。
父が26年前に去った後、林業の不況は一段と進み、森林が販売しにくくなって、専従者を雇いきれなくなりました。
さらにユウさん亡き後は、作業手入れ会社や森林組合の最小限の手入れをお願いし、
不足を森林ボランティアの「そらあけの会」や「林土戸」グループに補ってもらっている現状です。
とにかく、父亡き後10年ほど、「ゆうさん」と私でコンビを組んで山の手入れに勤しんできたのでした。
「どっちの林地から先に手を付けようか?」「あそこは蔓も絡み、ひどいヤブ状態になっちゃているよ」
「こっちこそ放っておくわけにはいかねえなあ」「枝打ちは待ってくんねえし」。
検討し、現場へ行って見分して、私たちはいつも、仕事に追いかけられていました。
夏の間に終わらせるべき下刈りが、秋になっても終わらない年もありました。
そして82歳にしてまだ山に入っていたユウさんは、急に足首が腫れて、血液の病気にかかり、
あっという間にお別れしてしまいました。


写真上(葉っぱのお面を作って幼児と遊ぶ)
写真下(森づくりフォーラムの下刈り大会で挨拶するユウさん・中央で帽子を手に)(雪害跡を見回る1986年)
ユウさんは、捨ててあった建築端材を拾ってきては山の休憩所を造ったり、
崖地に渡り橋を架けたりするのはお手のもの。
田舎のマルチ人間の典型で、生きる力に長けていました。
特にユウさんの山仕事への気概と誇りは天下一品、細心で注意深く、仕事の段取りにも優れていました。
囲碁の詰めのように次々と手順が浮んで来るらしく、
時には「はてな?」と自問自答しながらも能率よく仕事を進めていました。
ユウさんと父は、山の事で意思疎通は完ぺきでした。
林地のほとんどの箇所に通称があり、ない所は「~岩」「~クボ」と勝手な呼び名を付け、
一言でそこの林地の様子が二人のまぶたに浮かぶのです。
でも、父から私へと代が変わると、彼の養沢流「言わなくても分かんべえ」が通じなくて、
お互い途方に暮れたこともありました。
ユウさんは、組織にいたなら擦り減ってしまったはずの純朴さをたくさん持ち合わせていて、
それが時に、私との間で誤解が生じるのでした。
そんなことはわかっているはずと言葉を尽くさない私は、今思い返すと欠点だらけでした。
いつもは陽気で磊落な笑顔が魅力のユウさんです。
が、ある日とても不機嫌な日がありました。
理由はすっかりわすれましたが、にこりともしないで表情が険しく、
がみがみ言ったと思ったらそっぽを向いている、私はそういう時、取り入るのが苦手で、
遠巻きにしてほとぼりが覚めるのを待つしかないのでした。
ちょうどその日はボランティアが来ている日で、みんなはユウさんと親しくなっているものの、
やはり近寄りがたいのです。
ところがひとりが、「でもね、ユウさん」「ここは如何したらいいの?」「ユウさん教えてくれなくちゃあ」と
付きまとってしきりに声をかけます。
「自分で考えりゃあいいだあゎ」「俺は知んねえ」、とりつくしまもないのです。
「そんなこといわないで教えてよっ」さらに迫るその若い彼女に、さすがのユウさんもかたい心が次第にほぐれて、
普段の表情が現われてきました。はるか年長の私は脱帽でした。
もとはと言えば、私の指示の出し方に不満があったらしいユウさんです。
ボランティアさんたちには、その若さと明るさでずいぶん私は救われてきました。
二人だけでのすれ違いの時は「そんなつもりで話したのでは毛頭ない。
この胸を開いて見せてあげたい!」と私は言って、
最後に氷解すると握手を交わして、仲直りです。なんだか子供同士みたいでした。

白黒写真(ボランティアさんとお昼の味噌汁。
撮影はマスコミカメラマン、名称不明)
それでもユウさんは私を上司としてずいぶん我慢してくれたようにおもいます。
不満の箇所を上手に言葉に託せなかったのです。
苦労を背負った生い立ちだったようでした。
最後のころ、病院へ見舞ったときに涙を浮かべて話してくれたけど、
私が背景をすっかり理解するほど洗いざらいではなかったので、今もってよくわからないのですが、
彼が気を遣いすぎて逆な意味に解釈するところは若いころの境遇も影響しているのかもしれません。

写真上(雪越こしで、針金を使って木を引っ張り立てる指導をするユウさん)
「旦那(父のこと)亡き後は杖をついてでも山に行く」「百歳でも枝打ち現役とテレビにでる」と
口走っていたのに「約束が違っていますよ!ユウさん」と言いたいです。
70年以上も前、戦争のため木々を伐り出し過ぎて、禿山が多くなり、大洪水もたくさん起きた日本の山。
国から植えよ育てよと緑化が奨励されて、その先頭にたったのが、全国の「ユウさんたち」でした。
戦後間もなくはまだ、林地に作業路もなく、チェンソーや下刈り機なども開発されず、
身体を張って、来る日も来る日も山に埋もれ、木々と格闘し、緑にまみれた山の男たちでした。
彼らが、日本の森林の40%を占める人工林を仕上げてきたのです。

ユウさんのような純真すぎる心、それでいて「おれはおれ」と自分を信じ切る大胆さは、
自然にどっぷりと浸った長い歳月のなかで育まれたのではないでしょうか。
今でも森林ボランティアの心の中に生き続けていて話題が絶えないユウさん。
今回は実像写真とともに、在りし日を偲びながらありのままを紹介しました。
- 2017/03/06(月) 11:02:42|
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山からのたより その23 2016年秋の巻
山作業の手道具と仕事着 池谷キワ子
2016年11月10日
寒くなりました。お元気にお過ごしですか。
日本の国は三分の2が山で、ほとんどが山頂まで厚く森林に覆われています。
外国人は自国の川と比較して、
「河川ではなくてあれは滝だ」なんて言われるほど急流の部分が多いのです。
山も傾斜がきつく、成り立ちが複雑な地形となっているので、
森林を育てて伐り出すのになくてはならない林道が造りにくいというわけです。
私は調布市に住み、車を1時間余運転して、あきる野市養澤の林地に通っています。
中央高速を調布インターでのると、はるか遠くに丹沢山塊と奥多摩連峰が望まれ、
八王子出口に近づくにつれて今度は大岳山、鋸山、
三頭山といった秋川を育む山並みが立ちはだかってきます。
特徴ある大岳山の、象が寝そべった姿はそこからの道中ずっと見えていて、
五日市駅付近になって、さらに近くの金毘羅山、馬頭刈山にさえぎられてきます。
それから10分ほどで養澤の山ふところ辿り着くと、四方は一面の「みどり」、
スギヒノキの人工林が多くて、それが「緑豊か」とも「年中ダークな色で鬱陶しい」ともいわれます。
私にはほっとする眺めです。
仕事を終えて調布の家にかえるとき、次第に山々が遠ざかり視界から消えていくと、
わたしは後ろ髪引かれる感じになります。
日暮れが早い枝打ち時期(秋から冬の間)には月がのぼり出し、
ずっと調布まで道づれにすることがあるのは楽しいものです。

(養澤の家周辺。臼杵山を望む)
今日の主題は「山の手道具」です。
「鎌(かま)、鋸(のこ)、鉈(なた)」これが山仕事の基本的三種の神器。
それぞれに用途によって大きさや形が変わって各種あります。
これらは長い間愛用されてきていて、毎日何度も砥いだり目立てをしたりして
自分のからだの一部のように大事に使い込んでいくものでした。
柄は自分の手に合った太さに手づくりする、刃渡りも望むような大きさに鍛冶屋で
オーダーメイドする、砥いで鋼が擦り切れるまで使うというふうでした。
いまではのこぎりの替え刃や安価な鎌が出回り使い捨てが一般化してきました。
その上チェンソーや刈払機、枝打ちロボットなどの石油系の動力機械の普及で、
効率も抜群に高まり危険もさらに増しました。
どんな道具も山仕事では、木や固い草を伐り、研ぎ澄ました刃物を振り回す世界ですから、
足元不安定な山では危険と隣り合わせです。
それだけに集中して作業にうちこむとき、「余念がない」という言葉がぴったりとなります。


(長鎌と手鎌、鋸各種)
父もユウさんも自分の身の丈に合った手道具を分身のようにいとおしんでいました。
いま残された彼らの、汗がにじんで使い古された道具をみると、
山で笑いあっている二人の姿が目に浮かんできて懐かしくなります。

次に山作業のスタイルです。頭にヘルメット、もちろん長袖長ズボン、地下足袋、首に手拭い、
軍手、ベルトに下げた鋸や鉈(なた)とそのほかの七つ道具。
どこにでも座われて汚れていい格好は「昔のバンカラ調」です。それを勝手に粋がっています。
地下足袋は、山の凸凹の地面を足裏がしっかり抱いて滑りにくい、
枝打ちで梯子や枝に乗ってしっかり立っていられる履物です。
数少ない女性サイズもこの頃は手に入りやすくなりました。
今時はやりの山ガールと林業女子は、少しスタイルが違います。
林業では作業をしますから。

(鉈は右が枝打ち用、左は腰用の細鉈)

(道具小屋。左に刈払い機、右にヘルメット)

(葉の香りが強いクサギの花)

(サラシナショウマ、根に薬効がある)
私はちょっと変わり者で、枝打ち時以外はいつもゴム長靴を履いています。
この紙面に、仕事着のさまざまな格好や、まだほかにもいっぱいある手道具の
写真や解説を載せられないのが残念です。
岳人、田部井淳子さんは「山に行くと体の細胞が『解放』となって、
イキイキしてくる感覚があった~」そうで、森林の中にいると、確かにのびやかな気分や
身体のリフレッシュを貰らえると思っています。
今年の紅葉は遅くて地味な色合いです。
- 2016/11/13(日) 19:46:35|
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山からのたより その22 2016年夏の巻
山のニュースあれこれ 池谷キワ子
2016年7月3日 記
冬の巻からもう半年、「山からのたより」は長くご無沙汰しました。
養澤川には今年もホタルが飛び始めています。
ホタルの繁殖にまったく手を加えていない養澤ですが、苔むす流れに餌となる
「カワニナ」という巻貝が自然生息していて、ホタルは昔から絶えることなく養澤の夏に
彩りを添えてきました。
そらあけでは、この4日には「ホタルの夕べ」を催すことになっています。
山村は、四季の面差し、天気や気温の変化、自然、すべてが際立っています。
都会の生活が著しい変化を遂げて「便利」というひとことでくくられてしまったここ100年、
暮しやすさでは大きく水をあけられた山村の暮らしぶりです。
その間も、四方を囲む山は一センチも低くならず、むしろ植えられたスギ、ヒノキがどんどん
成長して山のはざまが狭まったくらいです。

(写真:「ホタルブクロ」はホタルが飛ぶころ咲く)
長い林業の不況は山の木を伐採してあらたな苗を植え付けるという林業の
循環を阻止してしまい、私の家の山(林地)も伐採がないので、
手入れの必要な若い木々が少なくなっています。そらあけの会が17年もの長い年月、
若い森林の手入れをやってきてくれたからです。もうほとんどの林地がとりあえずの
作業を完了してしまったといえるほどです。そこで拠点の「養澤本須集落」にかぎって、
放置畑の整備にも乗り出すことになりました。
家々の周りにある小さな畑も、以前はくまなく作物がつくられていましたが、
サラリーマン世帯が多くなり、畑に手が回らなくなっています。
それに、日当たりの少ない山畑で採れる作物は限られますし、どんな野菜も簡単に手に
はいるようになったのだから当然です。作付けのない畑もさらに拡大してきました。

(写真:養澤川の源流あたり。この少し下流にはホタルの幼虫の餌、カワニナが生息する)
まず私の家の篠竹藪になった畑を開墾し、そこに昨秋にキウイ苗を植え、
フキやワラビの山菜を試験的に山から移植してみました。
そして今年3月末には山梨県笛吹市の前嶋農園から前嶋和芳氏が「野生ブドウ」を6本持って、
植え付け指導にきてくださいました。
キウイもブドウも蔓を這わせる棚をつくらねばならないので、
今はスギやタケを集めて支柱の準備しているところです。

(写真:篠竹の密集した藪だった畑は切り払われて少しずつ整地。2015年秋の様子)
前嶋さんは30年来試行錯誤の上、無農薬でモモの栽培に成功したかたです。
雑草を果樹の周囲に茂らせ、クモも生息させて、モモの害虫が自然生態系のなかで淘汰され、
モモの木まで到着しないようなシステムを作り上げました。
そのモモは普通栽培の他家のモモと遜色ない、むしろそれ以上の栄養たっぷりです。
甘くて、本来モモ自身が持っている力を発揮させて実らせた果実です。
長年苦労を重ねた前嶋さんの無農薬モモ作りについては、ここでは詳しくのべられませんので、
どうぞネット検索してみてください。

(2016年3月28日。赤い手袋の前嶋さんとそらあけの会のメンバー。野生ブドウ植え付け)
野生ブドウという一般に広まっていないこのブドウは、施肥しなくても痩せた土地で育つ、
小さな粒の天然種です。商品化されていないのは、小粒で甘さも少ないためですが、
栄養はリッチで、一日一粒食すだけでミネラルなどが十分補えるそうです。
すでに腰丈ほどに成長していて、これからが楽しみです。

(写真:成長した野生ブドウ。3種類で、両性の種と雌の種があり、雄株は秋に植栽予定)
そして6月はじめには、近隣の家が所有する畑で、長年放置されて灌木が
生い茂ってしまったところを伐り開く作業にも手を染め始めています。
伐開が済むと本須集落の景観がさらによくなると期待が高まります。
また、6月4日には「サウジラビア」から20名の親子ツアーがやってきました。
「ささんた小屋」でくつろぎ、その下の養澤川で水遊びをして、山にはいりました。
この砂漠の国は木も水辺も少ないようで、緑がモリモリした養澤の様子に目を見張っていました。
まず木の香漂う「ゆうさんち」を見てもらい、私の家の納屋や古い和室に案内してから、
そらあけの会メンバーの協力で山を歩き、林内でお茶摘み体験もしました。
あるお父さんは枝がいっぱい落ちている林地を見て
「1か月ほど山のボランティアに来てあげたい、ささんた小屋に泊まりたい」と本気で言っていました。
後から聞くと「9日間の日本の滞在の中で、養沢行きが一番印象深かった!」
全員が異口同音に答えていたそうです。
わたしたちも、食べ物のハラルや、髪の毛と肌を一切見せない服装など、
文化の違いの大きさをたいへん興味深く思ったことでした。

(写真上:林内で。帰りがけに「日本の伝統的な文化を後々まで伝えていってほしい」と
お母さんから感想をもらいました。)

(写真中:養澤川で遊ぶ子供たち)

(写真下:日本に留学したいと語る学生たち)
サウジアラビア写真:日比典子、澤田衣里子
- 2016/07/04(月) 20:46:30|
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山からのたより その21 2016年冬の巻
居心地のいい井戸入り山林!
池谷キワ子
暖冬と言われていた今年ですが、ここへきて寒さも増し、雪が積もりました。
1月18日には15センチほどで、粉雪の舞うこの時期なのに重く湿った雪、少し森林に
被害があったようですが、まだ実態はつかめていません。
今回はみんなのお気に入りの森林の紹介です。
それは井戸入り山林と言って、養澤の家のすぐ裏手、井戸入沢に沿って13ha
(ヘクタール)がまとまっている我が家の所有林地です。
そのうちの7ha、沢の左岸が28年生のヒノキ林になっていて、植えた当初から、
作業員のユウさんたちやボランティアの協力を得て、私自身ずいぶん通い詰めて、
大事に育ててきました。
この林地は、1986年に激甚災害となった大雪害が発生して、森林すべてが潰れて
再植林したものです。40年生も60年生もほぼ全滅で、裂けて曲がり折れ、片付けて
跡地に植え始めるのに3年もかかってしまいました。

(井戸入り山林、1986年の雪害場面1)

(井戸入り山林、1986年の雪害場面2)
私の家から緩やかな山道を15分ほど井戸入り沢に沿って登ると、この雪害跡地植え
の林地に到着します。70年の歳月を経て伐り出して商品となるスギ・ヒノキですが、
幼齢林時代がもっとも手がかかります。よろよろして幼かった木々の世話に何度ここ
へ足を運んだか、数え切れません。7歳ぐらいからすっとボランティア「林土戸」
「そらあけの会」にもお世話になってきました。
中ほど地点に、たき火のまわりを間伐木でかこって休憩所が作られています。
写真は1995年下刈り大会の会場になった時のものです。
ボランティアが草を刈っている姿が見つけられますか?

このときヒノキは7歳。右は同じ場所で2013年、そらあけの会が枝打ちを6メートル
までしている様子です。今年(2016年)28歳。しっかり育ち、草に埋もれて窒息しそう
な幼い苗のころ、雪で曲がって起きられず、世話されたことを木々たちはすっかり
忘れたようで、大人の樹の風格をかもし出してきました。植えたばかりの7年間は、
炎天下の草刈りを毎年してやり、その後は枝打ち2回、間伐1回して、写真のように
林内には光が入って下草が生え、緑のダムの効果ある森林になってきます。
写真でおわかりいただけるでしょうか。

(光が差し込んだ林)
井戸入沢は日照りが続いてもけして涸れることなく、このように透き通った水を
サワサワと流し続け、沢沿いの道を歩くと、目にも耳にも心地よいものです。

(透き通った水が流れる井戸入沢)
何百年もの昔から、周辺の家々の大切な飲料水でした。
夏には孫たちが井戸入りで虫取り、沢歩きで大はしゃぎでした。

(虫取りにおおはしゃぎ!)
この水辺に春は蝶々、夏はオニヤンマなどのトンボ、ルリビタキなどの鳥たちが
来て水を飲み、水中にはサワガニやヒルまで居て、イノシシやシカの足跡まで
周辺についていたりして、水の流れは生命体の憩いの場所です。

(お茶場と呼ぶ休憩所での森林見学者たち)
そらあけの会では3年前「海布丸太」を仕立ようと、すこしのエリアですがスギを植え
ました。ヤマザクラの咲く4月上旬が植え付け時期です。苗は2尺(60センチ)。
これから十数年後に手すりや垂木(たるき、軒端に使う小丸太)に仕立てる予定です。

(スギを植える作業場面)
同じ林地に通い、成長していく木々を見守り育てていく、山は、春に芽吹き、夏は
緑にあふれ、紅葉し、寒い時期は眠りに入る。光の踊る晴れの日と小雨に煙る霧の日
では大違いの林内です。
日々を重ねて山に入り、木を育て続けると、やっと林業の面白さがわかってきます。

(ヤマホロシ)
「ヤマホロシ」(赤い実の写真)は部分的にですが秋には群生して地面の広がり晩秋
には沢沿いが「フユイチゴ」の赤いカーペットに覆われます。初秋の「ツリフネソウ」は
お茶場前の小沢にいつも咲きそろう、年によって草刈を遅くしたりすると見られない
こともあります。
さまざまな花や実が季節を間違えず現れる井戸入りは、それだけ多くの人や動物や
鳥が徘徊して、種子をまき散らした結果といえます。
山案内の地図の井戸入沢お茶場付近を貼りつけます。

右の寫眞はワサビ田です。私がこの世にいなくなってから数十年して、やっと伐期が
くるこの森林です。
はたしてそれまで雪害にも会わず一人前の材木として出荷できるでしょうか。
- 2016/02/11(木) 22:22:48|
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山からのたより その20 2015年秋の巻
がんばり「じろべえ爺さん」 池谷キワ子
今秋も災害の多発の季節になりました。清水茶寮関連のみなさま大丈夫でしょうか?
今回の「山からのたより」その20は、我が家の先祖のことです。
といっても普通の人の話なので、山村の昔人の一例として読んでみてください。

(「キバナアキギリ」 サルビアの日本原種だそうです (15年9月21日)
養澤という集落のもっとも下(しも)の本須(もとす)部落に私の生家があります。
「先祖代々林業を専業にやってきました」といつもはなしていますが、
正確には私より五代前の当主「池谷治郎平」(いけたにじろべえ)((1807~1900)から
専業になったようで、それまでは規模がごく小さい農家林家でした。
治郎平は百姓をしながら「馬搬業」で小金を溜め、「零細金融業」を営んで林地所有を
すこし広げていったのです。
「自らが植えた山を横目で見ながら、汗を流して馬を引き労働に励み」
(郷土史研究家・石井道郎氏資料)94歳まで生きたのでした。
それからの子孫は林業を主業とする専業林家として、「じろべえ90(くじゅう)爺さん」と呼んで、
彼の植えた木々を売り、跡地に植林して生計を立てるようになりました。
『我が国経済の担い手』(太田研太郎著・昭和24年発行)に青梅林業地のY(養澤)集落I家
として登場しているのが私の家です。そこには畑作高まで微細な収入まで盛り込まれていて、
初めて私は、家の歴史、昔の経済状態を知ったようなものでした。
実はこの本は我が家に存在せず、16年前に東大の筒井迪夫先生が森林視察に訪れて
初めてこの本の存在を知りました。林業図書室というべき文庫が赤坂・三会堂ビルの地下室
にあり、発行から50年して初めて読みました。作者はあけすけに我が家の事情を公開して
しまったので、この本を送付できなかったのではなかったかと思われます。
思い切って著者である晩年の太田先生を訪問したのは15年前です。
昭和23,4年に作者の太田先生にお貸ししたたくさんの記録データがもどってこなかったという
経緯もあって「ご返却いただけないか」とお願いしましたが、
「年月が経ち、手持ちの膨大な資料にうずもれてどこにあるかわからない」というお返事でした。
この本によると、「じろべえ(治郎平)爺さん」は「体躯壮健の偉丈夫」、
「衆望を担って養澤村戸長を勤めた」と書かれています。
最晩年には、朝暗いうちから廊下に座り込んで山で働いてくれる人の挨拶に相好を崩して
いたそうで、「起きたらすぐ顔も洗わず池谷へ山行きの挨拶に行き、それからゆっくり朝食を
摂ったものだ」というエピソードも残っています。
「夫婦揃って山麓から土を運んで岩ゴロの奥地にまで植林した」とは祖父からの話です。
「植林した」と一言でいいますが、薪炭林である広葉樹林を切り払らってスギ・ヒノキの人工林
を作るのは拡大造林と言ってたいへんな労作を要します。
「じろべえ」は肖像画も写真も残っていません。
そうした先祖から代々山林を引き継ぎ植え替えてきた我が家です。逢ったことのないこの先祖を、
私は林業をするうちにとても親しく感じるようになりました。

(寫眞は「じろべえ」が晩年に建てた門と蔵。明治20年ごろ、向う山は一部が所有林)
「じろべえ」は、息子が自分より先に身罷ったため、孫の精一(初代・私の曽祖父・安政3年生れ)に
林業の薫陶を授けましたが、精一は60歳で他界。

「池谷精一・初代」画(1856~1915曽祖父)

「祖父、池谷精一・二代目と父、池谷秀夫、大正11年1922撮影」(1882~1960)(1909~1991)
その彼ももっぱら山づくりに励み、祖父の精一(二代目)(明治15年生れ)、父(明治43年生れ)と
順次これを受け継ぎました。明治34年死去した「じろべえ」と私の祖父・精一(二代目)は
20年近く共に生きたのです。どんな人だったかもっと聞いておけばよかったと思うことです。
「じろべえ」ら先祖の植えた木を、「一本でも多く山に残しておく」のが我が家の家訓となり、
つつましく他業に乗り出さずやってきたのでした。家業を林業だけに絞ったということで、
ここ3,40年来の林業不況により面積広く伐り進まねば手入れが追い付かず、
林齢が平準化(法正林という)していた森林構成が、私の代ではすっかりぐらついてしまいました。
1986年の大雪害でさらに拍車がかかりました。
すぐの裏山には「じろべえ」が植えた140年生の林地が少しあり、そうした残された古い木たちは
ものいわずに昔を今につたえています。スギ・ヒノキは植えられてから一歩も動けない、
あてがわれた場所の条件に合わせて懸命に生きている、そのようすが山に長くかかわると
ひしひしと感じられることです。
「じろべえ」はまた、山に「すもも」も植えて、自ら八王子へ運び、それが評判を取ったらしく、
その林地は「ももの窪」と呼ばれてきました。「すもも」の残りの一本が我が家の裏庭に
植わっていました。外皮はうす緑なのに剥くと真っ赤に透き通った果肉は甘く、夏に鈴なり
に実るのでしたが、十数年前、さすがに老化が激しくなって切り倒しました。
昔の人は子孫の繁栄を願う気持ち、地域の発展を望む思いが今の時代の人よりも数段に強かった。
つい忘れていることですが、子孫の私たちはもっと感謝しなければならないのでした。
林業をやる者、自然にかかわる者は、自分の存在しなかった過去に思いを馳せ、自分の去った後の
未来を思い描く能力がより強く求められているのでしょう。
時代を超えた長い水平視野を持つことは、ビジュアル化された現代、かえって能力が落ちている
分野のような気がしてなりません。いま特にそれが求められている時代かと思います。

(「じろべえ」が明治初年ごろ植えた裏山のスギ、140年生。ピンクの花はシュウカイドウ)
(15年9月21日撮影)
- 2015/09/25(金) 08:43:42|
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山からのたより その19 2015年夏の巻
養澤の山はこれから? 池谷キワ子
清水茶寮ホームページの読者のみなさま、こんにちは。
またご無沙汰してしまいました。
人は齢を重ねるにつれ、四季の巡りが足早となるとは誰でもいうことですが、今年の
ように寒さから暑さがひとっ跳びだと、ふと気が付くといつのまにか夏が来ていた
といった感じです。
そして梅雨に突入でした。
7月になるころ養沢川ではホタルが舞いだし、ネムの木が夢見がちなあわいピンクの
花に覆われます。
ホタルブクロの薄紫の筒状の花はその名にぴったりです。
川沿いの「ささんた小屋」の斜面にはヤブカンゾウが橙色に咲き出し、ホタル見物に
最適の場所となっています。
でも、今年はさらに、前回に紹介した「ゆうさんち」がもっと目近に川面のホタルが
見られるようになりました。

(ネムの木と養沢川6月29日)
林業は商品ができるまでにこのあたりではだいたい70年かかります。
ちょうど終戦のころ植えた木が、今やっと伐り出せる時期を迎えています。
ところが材木価格は大幅に下落したままで推移しています。
養澤では、山に林道や作業路が入っていませんから、架線集材と言って山の斜面の
空中にロープを張ってトラックに積める道端.まで木材を下ろす出材です。この方法では
経費が掛かり、丸太市場で材を売っても、その手間賃だけで売上が消えてしまうのです。
この地域は林地が小刻み所有で、地形が複雑に入り組んでいるからです。
そこで林業者同志が手を組んで協力しあう「集約施業」をしていきなさい、林道や作業
路をつなげてつくり、山から木を伐りだすコストをさげるようにしなさいと、ここ数年間、
林野庁からの指導が続いています。
でも私たち養澤地域は小規模所有者ばかりでこの取組みが進めにくい現状でした。
そこに登場したのが築地豊さんです。彼は森林ボランティアから作業のプロに転向して
十数年。最近になって林業の仕事を請け負う、一般財団法人「木の和(このわ)」を作り、
養澤地域を中心に林地を所有する山主さんに賛同してもらって、林野庁の進める集約
施業を展開しはじめました。
築地さんという第三者がわかりやすく熱心に説明するので信頼が徐々に得られてきて、
3年近く経ち、15人ほどの所有者が賛同してくれています。
林業離れが加速する今、私はこの方法に「林業の未来がある」とたいへん期待してい
るところなのです。

(写真↑伐採する築地さん ↓昨年造成した作業路。林内に延ばして出材をしやすくする)

養澤では、江戸時代の終わりの頃から、天然林を伐採してはスギ・ヒノキを植樹して
人工林の林地を増やしてきました。寒村で山林しか暮らしに役立てられる自然はなく、
各家は、薪炭用の広葉樹林をスギ・ヒノキ林に仕立ててきました。
これは拡大造林といって大変な労作がかかります。
自分の生きている時間のうちには収穫できないという性格の仕事なのに、汗水たら
して子孫のためにと頑張った先祖たちです。
さらに「共有林」という、何人かで共同出資して林地を買うか借りるかし、苗を求め、
力を合わせて手入れに励み、育ててきました。
養澤地域は一人の力が弱かったためか、手を携えて励む気風があり、たくさん
「共有林」があるのです。でも、その地権者が相続や登記の手続きをやってこなかっ
たために、いま私たちの抱える大きな問題となっています。
戦後はとくに、燃料革命など森林を取り巻く状況が急激に変貌しました。
長い時間を必要とする林業、急に手の平を返すように造り直しはききません。
そしてやり直したとしても、それが成熟したあかつきにはどんな結果になるか分かり
はしないのです。だから林業は、不況のときも繋いでいくことなのでしょう。
どんな好景気の時代でも、木は同年輪しか刻まない。
肥料をやって早く肥らせたりすると建築に向かない力の弱い材に育ってしまいます。
人間の事情など関係ない、ほとんどを自然界にゆだねた仕事です。それでも、適時に
手入れをしないと枯れたり曲がったりですし、時には雪や台風で林が折れ裂けてゴミ
と化してしまうこともあります。 ↓

(↑このまま放置すると曲がり木になる 10年生ヒノキ林 )

(↑1986年の激甚災害となった雪害 池谷山林 撮影池谷キワ子)
今回の山からのたよりはちょっと理屈っぽいですね。その上、以前に書いたことと
ダブった内容もあります。
ただ養澤の林業に薄い光が差し始めた「集約施業」、これからです。
続きを書きたいと思う日が早く到来してほしいと願っています。
- 2015/07/10(金) 08:50:15|
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山からのたより その18 ‘15年早春の巻
本の感想「鉄がそんなに大事とは!地球は鉄の惑星だった」
池谷キワ子
清水茶寮のみなさまこんにちは。ようやく春の足音が聞こえてきました。
山のひだまりに「オオイヌノフグリ」「スミレ」が咲き出し、
庭先の落ち葉の懐に黄色い「フクジュソウ」や「ヒガンバナ」の緑の葉が目につきはじめました。
今回は本の紹介です。

「森は海の恋人」と称して、気仙沼のカキ・ホタテ養殖漁業を営む畠山重篤氏たちが、
山に木を植える運動を長い間やってきたことは、広く知られています。
本やTVでお話を聞いた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
わたしも10年ぐらいまえ羽村市で、「山を手入れすれば下流の海が豊かになるのだ」という、
日焼けして髭を蓄えたやさしい風貌の畠山氏のことばに接しました。
前回この欄に登場した、そらあけの会Oさんは、つい最近、この畠山氏から身近にお話を聴く
機会を得たと『鉄は魔法つかい』畠山重篤著(小学館・1300円)の本を私に届けてくれました。
畠山重篤氏は50年にも及ぶ漁業の傍ら山にも熱い視線を送り続け、
さらに「森には魔法つかいがいる」と聞かされていた、
そのおおもとを探るため研究者から意見を聞いたり、海の調査の協力をしたりしてきました。
このことをエッセイや学校の副読本も書いてきています。
東日本大震災では、牡蠣の養殖場だけでなくお母様まで津波で失ってしまいました。
そんな中でも勇気をふるって出版したこの本は、たくさんの漫画風イラストや問答形式にして、
子供にも読みやすい、でも内容はとても深い問題を語り掛けています。
地球にあるいのちは、実は鉄の力のよるものだったというのです。
鉄がさまざまな大切な元素の結び付け役として、光合成する植物、川の水、深い海、
人間の身体の中、あらゆるところで活躍していることを
鉄の研究第一人者ジョン・マーチン、広島大の長沼毅ら、幅広い科学者たちから聞きただし、
わかりやすく解説していて、私には「目から鱗」の読後感でした。
中国から黄砂に混じって飛ぶ鉄、アムール川上流大湿原から運ばれてくる鉄、
海に運ばれた鉄は沈んでから大回遊をして黒潮に乗って浮上する鉄。
これら微量な鉄が微生物やプランクトンを養うことで、たくさんの豊かな生命体がピラミッド状に
つくりあげられるのでした。
でも、この興味深い実証を一口で紹介するにはとっても難しい、まずはご一読をお勧めします。
はげ山から鉄分が流れてきてもそれではだめで、森からの腐葉土に作用して「フルボ酸鉄」という
結合体にならないと、植物プランクトン発生の役に立たない。
そして川が海と出会う汽水域(きすいいき)が、生命体にとって豊かな役割を果たす大事な場所だそうです。
多くの地道な研究者によって切り開かれようとしている鉄が絡んだ地球上の生命の謎を、
畠山さんはその仕組みをやさしく語っていきます。エピソードは世界中にわたっています。
「赤毛のアン」のプリンスエドワード島がロブスターの好産地なのも、島自体が赤い土に
覆われていることに関係している、原題と違えて題名に「赤毛~」と名付けて多くの愛読書を
得た村岡花子さんですが、この鉄の多い島をイメージしてのことではと畠山さん説を唱えています。
身近で柔軟な発想、これがこの本の大きな魅力です。

私の山では、5,6年生以上の幼樹、たいていは2,3メートルですが、雪や風でよく倒れます。
その時起こしてまっすぐに立ててやる「雪起こし」は以前は針金を使っていました。
木々が立派にすっと伸びてくると、不要になった針金がゆわえつけた枝にぶら下がったり林内に
捨て置かれたりしていました。「針金は腐るから大丈夫だ」山仕事のユウさんは言っていました。
そのとおり、危なくないようにしておけば、このごろ使うビニール紐よりずっと環境的なのがこの本で
よくわかったのでした。
(たくさんのイラストが楽しい。「赤毛のアン」のプリンスエドワード島の紹介。右下は筆者の似顔絵。124ページ)
- 2015/02/25(水) 12:40:10|
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山からのたより その17 14年冬の巻 リーダーOさんのこと
池谷キワ子
おたよりがまた滞ってしまいました。
10月には白井啓子さんが初めて養澤の山を訪問してくださり、初対面を果たしました。
ここ何年も清水茶寮ホームページに書いてきましたので、私には旧知の方のように
思えた出会いでした。でも、その時の模様はすでに白井さんが書いていますから、
ここでは詳しい報告はなしにします。
いままでのおたよりで、山のよさばかり書いてきましたが、実際、森林に足を踏み入れると、
朽ちた枝葉や倒れた木々が散乱している場所もあったりして、
養澤の森は「絵のようにきれい」ではないことが白井さんもお分かりになったことでしょう。
「そらあけの会」は、15年余り前、主婦4人で始めた森林ボランティアグループです。
リーダーのOさんは羽村市在住、その時50歳ぐらいでしたか、蔓を編んで大きな籠を作ったり、
援農に行ったり、たくさんのことを精力的にこなしていました。
雪害で森林がめちゃめちゃになっている現場を見学して林業の現状を知ったといいます。
多摩の森林は、戦後の拡大造林でたくさんの人工林が造られ、その後の材価の下落続きで、
手入れが見放されてきました。
そうなると、水を育んだり山崩れを防いだりの役目も果たしにくくなります。
1999年スタートの「そらあけの会」は、月2回の月曜日に15年間、休むことなく下刈り、枝打ち、
間伐、などの山作業を続けてきました。それはOさんの説得力ある話しぶり、なんでも率先垂範、
みんなを思いやる心、リーダーシップがあったからでした。
今では会の宝物のような存在です。その後は男性会員も増えて今では15人ほどの参加です。

(枝打ち林地で話をするOさん。手前左)
千葉で育ったOさん、若い日々はテニス三昧だったそうで、体力抜群です。
作業林地に到着したと思ったらもう、休憩場所のあたりを鎌で切り払い、唐鍬(トンガ)で整地し始めます。
みんなが居心地よく過ごせるようにいつも心を砕いてきました。
両方のお母さんのお世話のため、ここ数年は、実際の代表の座を降りています。

(山から材を切り出すそらあけの会、みんなで皮を剥きました。次ページの写真)
ところが昨年、山仕事のプロで、初期そらあけの会の師匠だった
「ユウさん」の家が売り出されたのを受けて、Oさんはセカンドハウス用にと購入して改築。
ボランティアの憩いの場所としても解放してくれています。
そらあけ道具小屋からも、川を隔てて真向いです。居間は内装が地場の板で新しくされ、
目の前には養澤川が窓を通してワイドに広がり、まきストーブが燃えて、そらあけメンバーは
大喜びとなりました。
ユウさんも天国で、素敵に生まれ変わった我が家がみんなに使われていることに、
さぞ目を細めているに違いありません。

(磨き丸太が玄関の桁と柱になりました。ここの網戸も木枠です)
Oさんの山へ注ぐ気持ちは限りなく広がっていて、
先代の人々が造ったスギヒノキの多い多摩の山を健全に整備したい、それには地場の木を
もっと使ってもらうことだと、「ゆうさんち」と名付けたこの家の目的のひとつにしています。
そんな「山の応援団長」であるOさん、ご家族と折り合いをつけながら、これからも周囲のため、
養澤集落のために元気で活躍してほしいとみんなが願っているところです。

(「ゆうさんち」の庭で玄関用の柱の皮を剥く、バックは養澤川と堰堤)

(雨戸も板製の手作りです。ベンチを造る会のメンバー)
- 2014/12/16(火) 16:49:08|
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山からのたより その16 14年夏の巻
池谷キワ子
清水茶寮のみなさま、ご無沙汰しました。
パソコンを替えたりするうち私自身の身体的トラブルも発生して
季節が廻って来てしまいました。
今年の夏はなんという天候の不順さでしょう。特に西日本や裏日本は
びっくりするほどの雨量で、広島市での山林崩壊は犠牲者が多数で
ほんとうに痛ましい出来事でした。
今回は「山の香り」について書きたいと思います。
山に入るといつも湿った土や草の自然な香りを感じます。
とくに芳香というわけではないけど、なぜか心が落ち着く気分になるのです。
花では、独特の香りを発するのは「ヒサカキ」の花。
春まだ早いころ個性的な匂いをかなりの範囲に撒き散らして強い自己主張しています。
これに出会うと「春の息吹きが萌え出してきた!」と思うのです。

(↑「ギンリョウソウ」6月)

(↑間伐したら「キンラン」出現、白花は「ウツギ」4月)
山で匂い立つものは「サンショウ」です。
下刈りでこの小さい木を伐ると、辺り一面に飛び散る爽やかな香り、
おもわず深呼吸してしまいます。サンショウは実も葉も幹も匂いの塊です。
棘が枝に対生しているのが「ホンザンショウ」、互生していれば「イヌザンショウ」と
いって香りが少ない品種です。
サンショウは実も葉も食卓に欠かせません。幹は「すりこぎ」です。
いまブームの和食ですが、「かおり」の要素が大きいと思います。
もっとも外国でも、ハーブ、香草、香辛料がたくさんありますけれど
。山菜は普通の野菜に比べて特に匂いが強く、ワサビ、フキ、茗荷、シソ、山ウド、
どれもその味わいには香りの部分が強いですね。

(↑「ツリフネソウ」 9月)
山でかおりの強い木といえば、もちろんわたしたちが育てている「ヒノキ」。
油脂を多くふくんだ芳香が虫を寄せ付けないので、この材が長持ちするのです。
これを抽出して芳香剤エッセンスも出回っています。
「クサギ」と「コクサギ」、花が似ていても科が違っているので、葉の匂いは大違いです。
どちらがよい匂いか、人によって差があります。
嗅覚は個人差がとても大きいのだそうで、みなさまにも一度試していただきたいものです
。目も耳も人より劣っている私ですが、嗅覚だけはかなり自慢できます。
動物のほうが優れているといわれる嗅覚です。

(↑クサギの実10月)

(↑「イワタバコ」滝の周辺に群生 7月)
花の季節になると漂ってくるかすかなよい匂いは、どの花からやってきているのか、
しっかり見届けないでいつも山仕事を続けてしまっています。
山に居ることの気分のよさの一端には、こういったさまざまな「山の香り」があるからでしょうか。
動物の死骸が発する腐敗臭も、
木々の精気「フィトンチッド」が消してくれるのだとどこかで読んだ記憶があります。
「そよ風」もこういった香りを乗せてきてくれる、目には見えないけど素敵な存在なのです。
- 2014/08/28(木) 10:44:44|
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山からのたより その15 ~養沢集落の昔~
池谷キワ子
このシリーズもおかげさまで15回となりました。
読者のみなさまはもちろん、掲載くださる清水茶寮に感謝です。
森林・林業・山村のことは実態があまり知られていないようで、
このページでお知らせできてうれしく思っています。
今年は大雪の2月となり、根雪となって長く残りそうで心配です。
春の待たれるこの時期はお正月からとくに行事が続きます。
ここに記すのは、もういまでは存続していないことが多いのですが、
いくつかを追いかけてみます。
わたしもかなり長く生きてきたので、つい山の社会が華やかだった
何十年も前の話になってしまいます。

(これは昨年の養沢風景。今年はこれ以上の積雪です)
●1月15日、『小正月』は「藪入り」とも言って林業の家では住み込みで
働いている人が実家に帰ります。
印半纏(しるしばんてん)という屋号入りの作業服が支給されます。
またこの時期は「繭玉飾り」といって、今年の御蚕様がたくさん糸をだしてくれるように、
繭になぞった上新粉の小餅を枝にさして飾ります。
合わせて今年の豊作祈願です。17日は「山の神の日」。
この日ばかりは山から遠ざかっていないと山の神の怒りにふれるのだそうです。
●1月20日『えびす講』。
台所に祀ってある「えびす様」にお明かりをあげ、尾頭付きの鯛そのほかを
お供えして家内安全と今年の豊作を祈念します。
えびす講は10月20日にもやり、この日がより一般的のようです。
わが家ではいまでも続けています。
●2月3,4日『節分』『立春』。豆まきの折、「福は内、鬼は外」のあと、
養沢では「鬼の目玉をぶっつぶせ!」というのです。
イワシのあたまを焼いてヒイラギに刺す、どこでもやりますね。
●2月の最初の午の日(今年は2月4日)が『初午』で、お稲荷様のお祭り。
5色の幡と油揚げや豆ご飯を奉納します。
養沢では数十年前まで「ちんちょうや」と言って、子供が囃し歌を歌いながら
家々からお菓子を頂戴して歩きました。

(写真は初午の稲荷神社。その11でも紹介しました)
こうして挙げていくと書ききれないほど行事が目白押しだとわかります。
山仕事は冬から春にかけて多く、田んぼのない養沢でも畑は細々ながら在り、
農繁期には学校はお休みとなってみんなが家の手伝いです。
「学校林」という林地もあって、夏休み前ごろには、全員で鎌を手に山へはいり、
幼樹の周りを刈る「下刈り」をさせられました。
その時の経験があまりに暑くて過酷、「山作業員だけにはなりたくない」と
クラスの男の子たちは肝に銘じたようでした。
そのころは村の財政も乏しく、学校林を育てて、木材生産で得た金額を学校資金の
足しにしようと親たちは躍起だったのです。
養沢では秋祭りより春祭りで、臨時の舞台を青年団で建てて村芝居に興じたのは
戦後でした。わたしはちょうど子供から思春期のころ。
集落の青年たち、ちょんまげのかつらをかぶったおにいさんたちや島田に結った
年頃の娘さんが素人芝居に熱中します。私たち子供も舞踊やら寸劇に登場させられました。
股旅ものや「お染久松」道行きもあって、「あれは〇〇さんだ!!」と
やっと見破っては大笑いです。
この催しで、ひそかなロマンスも青年たちのあいだで育まれたりしました。
『獅子っ狂い』といわれる「獅子舞い」もお祭りのメイン行事で、
3匹の獅子と「ささらすり」の女性4人、集落特有の調子を奏でる笛吹き、
一行は各神社を奉納してまわりました。
お祭りは、豊作を願う神事とからませて娯楽の少ない山間の最大のお楽しみ。
桜の咲き誇る4月12日が決まりでした。

(写真は昭和26年4月、お祭りの片づけを終えた記念撮影。筆者も写っています)
食べ物に関しては、暮れの「お餅搗きと蒟蒻作り」、
春からの「お茶摘み」、「梅干しつくり」「ラッキョウ漬け」、
「ぼうち」と呼ばれる「脱穀」、「干しさつまいも、切干大根」つくり、「白菜」は
冬の貴重野菜で、大事に新聞紙に包んで蔵へしまいます。私は5人姉妹で、
母の「夜鍋仕事」は娘たちの衣類つくりで、とくにお正月近くなると大車輪。
明け方まで奮闘して、元旦の朝、枕元に仕立て上がった晴れ着を並べてくれました。
靴下の穴が開いたのは電球をいれて糸かがりするのは子供もやらされましたが難しい仕事でした。
昔の養沢川は、いまよりずっと生き物が多かったように思います。
いまではすっかり消え去った「ぎばち」「かじか」「うなぎ」が沢山獲れました。
「鮎」「やまめ」は放流しているせいで今も獲れますが「はや」「めだか」も
影をひそめてしまいました。
父たちはだれも、釣りというより素潜りで魚を「さくり」にひっかけてたり、
「突き」でついたりして魚を取り、ときには「どう」という竹で編んだ筒状の仕掛けを
流れに設置します。入ったら出てこられない仕組みの筒です。
中でも「かじか」獲りは、そーっと石をどかして、水底に張り付いているのをすくう、
女の子でもできました。「かじか」は「あたまでっかち」で、かりかりに囲炉裏で焼くと
香ばしい味わいでした。

(上の写真。いまでも昔からのやり方で、中央にある「芋洗い機」にいれて、
養沢川の流れでまわして泥を落とす家がある)
でも、いっときはほとんど消え去った「ホタル」が近頃復活してきたのはうれしいことです。
洗剤も改良されて、浄化槽も普及したおかげでしょうか。
養沢川は人工的なことはなにひとつしないのに「源氏ボタル」の自然発生が戻ったのを集落では
自慢にしています。
(今回は写真の収集がうまく行かず、獅子舞いの写真などお見せできないのが残念です)
- 2014/02/16(日) 21:22:32|
- 山からの便り
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「山村の怖いお話し!」 池谷キワ子
お茶愛好家のみなさま、夏から冬へひとっ飛びでしたがいかがお過ごしですか。
このところ日本ばかりでなく、世界中に気象の変化で災害が多発しているのは
人災といえるのかもしれません。
今回は山里「養沢」の周辺のことです。暑い時期の方がふさわしかったでしょうか?
養沢の入り口に火葬場があり、下流の乙津(おつ)集落との間で、そのあたりだけ
人家が途絶えています。
その道端の「幽霊」が出る、人が道脇に立っている、子供を抱いた女性が川べりに消えた、
と囁かれるようになりました。集落へ一本だけの道ですから、夜遅く帰る時は車であっても
不安がつのります。火葬場は数年前にクローズされたのですが、そういう話の舞台装置とし
ては完璧なところです。
わたしが半世紀前に通った分教場も、トイレに「馬の幽霊」がでる、
右端の使われていないトイレは、入ると出られなくなる、といわれていました。
養沢分教場は養沢の中ほど、両脇の山がせまっていてほとんど日が当らず、
傾いた廊下やトイレへの渡り廊下は、裏山斜面からの湿気でじめじめしていました。
大正時代になって校舎ができる前は、馬の墓地だったそうです。
江戸から明治への時代はどこの家でも馬を飼っていて、生活は馬の力に頼っていたのです。
たくさんの馬が埋められてきました。家には「開かずの間」というのがよくあって、
放置された納戸や物置はお化けが棲むと言われたりしました。


(林地が95%ぐらいを占める雨後の養沢)

(秋の夕方は早い。夕焼け雲も家路を急がせる)
養沢は今よりずっと田舎の面ざしをもっていました。
「キツネに化かされて」同じ道をぐるぐるまわった、
山からくる「ことろ(子供を取ろう)のおじさん」は夕闇まで遊んでいる子供を連れ去ってしまう、
ヘビを生き埋めにした従兄弟と私が重い風邪にかかったのはヘビのたたり、
お墓の上にヒトダマが飛んだのを私はこの目で見た、という具合でした。
夜が訪れると、遊んで過ごした裏山は動物の天下となり、フクロウの「ほうほう」という
声も響く魔窟になります。白黒の映画の世界のようでした。
ヒトダマはたしかに大きい玉になってすーっとお墓を横切ったのです。
夏の夜、校庭で映画が上映され、幕間にわたしは門柱に寄りかかって木立の間のお墓のうえに
一点の明かりがあるのを見ていました。急にその点が、ふわっと大きく玉になって燃えながら
飛んだのです。そのあと、また元の点になってしまった。友を呼んで言ったら
「あそこに小さな明かりがたしかに見える」とうなずきました。
土葬だったそのころ、死者から発された「リン」が一瞬集まって燃えるのだと聞かされました。

(山への入り口。一歩入るととても暗い)
現代で物騒なのは、人間の仕業です。
今春も2軒の釣り場事務所に同時放火がありました。昔は動物で、モモンガやコウモリの
闇に浮かぶ姿は不気味ですし、キツネは頭脳明晰で人をペテンにかける、
キツネからもらったお札が良く見ると木の葉だったとかいわれます。
でも、新実南吉の「ごんきつね」「手袋を買いに」など人との交流のお話しは微笑ましいものです。
明治のころまでは「オオカミ」がいて、
山から人の後をついてきて恐ろしかったと家々には伝えられています。
でも、すぐ隣の武蔵御嶽山の守り神はオオカミです。
-武蔵御嶽神社の解説よりー
神社の「おいぬ様」=日本狼ですが、狼が守り神となった由来が日本書紀に現れますが、
御岳山では次のように伝えられています。
『日本武尊が東征の際、この御岳山から西北に進もうとされたとき、
深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜(やまびる=野蒜)で大鹿を退治したが、
そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われてしまう。
そこへ、忽然と白狼が現れ、西北へ尊の軍を導いた。
尊は白狼に、大口真神としてこの御岳山に留まり、すべての魔物を退治せよと仰せられた。』

↑(神社のお札。各家は戸口に貼って魔物を防ぐお守りとしていた。)
御嶽神社は養沢集落のすぐ隣の山頂に建ち、元旦まだ暗いうちに、
村人は山道を登って参詣に訪れ、日の出山に廻って初日の出を拝むのが習慣でした。
いまでは歩いて登る人はなく、ぐるぐると山裾の車道を1時間近くかけていき、
ケーブルに乗りついて参拝するだけです。
以前に書きましたが、養沢へは五日市から戸倉まで来て、
そこから横根峠をこえるのが主街道でした。
わたしの祖母が明治の40年に扇町屋といういまの狭山市からお嫁に来た時、
最初に出した嫁入り道具一式が横根峠で「追剥(おいはぎ)」に盗られてしまい、
再度整えたのだそうです。
街に育った「サクおばあちゃん」は「こんなところとは知らずに(嫁に)来たんだよ」と
私に言っておりました。
怖い話もあんまり恐ろしくなかったですね。
人の気配のない山のなかで、夕闇せまるころ聞かされたらすこしは真に迫るような気がします。
- 2013/12/09(月) 18:12:12|
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山からのたより その13 夏の巻
山で採れる食材、山の楽しみ 池谷キワ子
暑さもピークが過ぎたのかまた来るのか、ともかく酷暑でした。
いかがお過ごしでしょうか。
山も日照りが続いた後に大雨だったりしています。降りすぎて山崩れ(養沢では「くよ」)が
起きなければ山の降雨は恵みです。
今回は山での食べ物編です。春、山に生える草々の新芽はほとんどが食べられるといえそうです。
もちろん、ハシリドコロ、ヒガンバナ、クサノオウ、タケニグサなど毒草もけっこうありますが。
山菜の王様、ワラビ、ゼンマイ、タラノメ、コゴミ、フキなどはこのごろは普通に出回っていて、
栽培されているようです。特に「山菜天ぷら」の材料は盛りだくさんで、数え上げればきりがありません。
やっぱりなんの人手も加えず森林や草原で野生したものほど香り豊かなのが春の新芽です。
そのかわりアクが強く、味が濃厚でやみつきになりますね。
養沢では自分たちが楽しむ量を山仕事のかえりに採集するだけ、根絶やしにしないのが原則です。
夏の盛りのこの時期、少ない山菜をいくつか紹介します。
わが家の裏の山の入り口に植えてある茗荷は7月末あっという間にこのように花が咲いてしまい、
品のいい花ですがこうなると食材としてはツーレイトとなります。品種が違うらしい「秋茗荷」は
彼岸ごろ、色がピンクでより美しい。山への道にはミツバが自生しているので、ボランティアが作る
「みそ汁」の青味に最適、摘みながら登って行きます。
すこし登った林地に先祖が植えた孟宗竹の林があり、5月のタケノコはひざ丈ほどに成長してもまだ
柔らかく食せるので好評です。
花が咲かないうちがいい
昨年の多作だったタケノコの写真です。
収穫後はみんなで平等にわけます。今年は裏作で10%にも満たない少ないものでした。
青ユズ 自然に生えているミツバ
8月収穫ブルーベリー ワサビ田にはいつも沢に水を流す
青ユズは8月はまだ小さくて、完熟する11月ごろのユズとは芳香も強くおそうめんにぴったりです。
蒟蒻は収穫に数年かかりますが、これは「そらあけ畑」で栽培しています。
年末に、そらあけ会のYさんがレシピとともにお刺身蒟蒻を伝授です。
ブルーベリーは7月末からがシーズン。
これは畑に苗を植えて20年余りなのにさっぱり成長してくれないのです。
世話がすくないので怒っているようです。でも、絶対病虫害にかからない、タフな植物です。
ワサビ畑ははるばる千葉からもう15年も通っている公認会計士嬢が、森林ボランティアのかたわら
独自でワサビ田を造り上げてきています。このことは、便りの“その7”に書きました。
ワサビは「まずま」「だるま」という種類が栽培種だと奥多摩の新島先生に聞きました。
井戸入沢に点々と自生しているワサビは、50年以上前近所のおじさんがここで育てたことがあった名残です。
ついで昼食のお話しです。「そらあけの会」お弁当タイムはうれしいいひととき。
「かしき」と呼ばれる2名の食当が、一年中、鍋いっぱい「具だくさんみそ汁」を作ってくれます。
自由持ち寄りの具は、生まれて初めてというようなアイデア食品も入って闇鍋ふうです。
12時10分前に笛の合図で作業の手を止め、順次「お茶場」と呼ぶ荷物を置いた、たき火の炉のまわりに
もどってきます。昼食はかなりまとまった量のお惣菜を持ってくる人もあって、それをバイキング形式に
ぐるぐる回すのです。
「怪我と弁当と足は自分持ち」といわれるボランティア、すこしでも楽しんでいただけたらと、
わたしも出来る範囲でオカズを用意していきます。このごろは20人になることもあり、この写真より
もっと大量に持っていきます。夏は野菜マリネや酢の物を冷やしていくと好評です。
山での楽しみはいろいろあります。
- 2013/08/27(火) 09:58:42|
- 山からの便り
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山からのたより その12 ヨーロッパの森林
池谷キワ子
2013年4月末にヘルシンキ、バルト三国、ポーランドにいってきました。
毎年一回、夫の友人たちと中近東、東欧あたりに行っています。
林業とは関係ない旅です。
そこで今回の「山からのたより」はすこし趣きを変えて世界の森林を話題にします。
といっても、そんな旅の中で見たこと、
いままでに林業のなかまから聞きかじった話や読んだ本がネタです。
もうとっくにご存じの内容かとも思いますし、独断的に書いています。

※北極に近いロシアの上空を飛ぶ
フィンランドは世界一の森林国で国土の74%を森が占め、
大地は平坦で湖沼が多いそうです。
でも、この国の滞在は2日、ヘルシンキだけでしたから森林の様子は垣間見ることも
できませんでした。北欧材としてノルウエーなどから日本にも多く輸入されています。
バルト三国もポーランドもまったく平な地面が続いていました。
エストニアではもっとも高い山が300メートルと聞きびっくりでした。
バルト三国では、たくさんの人工林の中をバスで通過し、
シラカバ、トウヒ、アカマツが主で日本より密植(日本では通常ヘクタール当たり3千本)でした。
もちろん天然林もあるのですが背の低い灌木でした。
人工林もまだほとんどが成長過程で、日本の成長にあわせて眺めると、
せいぜい30年くらいの樹齢にみえました。人工林はそれ以前にはあまりなかったらしい、
あったとすればどこかに残っているはずですから。
風などであれたところも枯れ木もそのままで育林の手入れは少なく、
あまり太くなくても皆伐(いっせいに伐る)して、薪や建材につかっているようです。
でも、きちんと伐採跡地は再造林(苗を植える)してありました。

※シラカバとトウヒの人工林 バルト三国リトアニア 2013年
安田喜憲氏の著書『日本よ、森の環境国家たれ』によると、
ヨーロッパは「畑作牧畜民」で「家畜の民」。
日本は東南アジアとともに「稲作漁労民」で「森の民」、と異なる道を歩んできた、
前者は天然木を伐り払ってしまい、ヒツジやヤギを育てて小麦を作ってきた、
後者の日本など稲作国家は、田んぼに流れ来る水を確保するために、
森林を大事に守り循環させてきたといいます。ドイツもいまでは森林国ですが、
それは森を畑や牧草地にしすぎたために、これではまずいと人工林造りにまい進した
結果からでした。
いま、森林国といえるのは北欧、ドイツのほかにオーストリアがあり、
近年の林野庁は、急峻な地形が似ているここの森林政策を参考にしています。
安田氏のこの本によると、ギリシャのアテネ・パルテノン神殿の周辺も、
アテネ北部のご神託で有名なデルフィ遺跡の一帯も、鬱蒼とした森林にかこまれていた
そうです。ギリシャのように雨に少ない地中海沿岸で森林が伐られ再造林をしないでいると、
雨のたびに土は流れ落ち、岩山となって、二度と樹木の生い茂る山には戻れないのです。
数年前ギリシャの旅をしたおりは、そんな森林があったとは想像もできませんでした。

※ギリシャ・デルフィ遺跡2008年 巫女の占いが著名で、
ご神託によりたくさんの国の運命が決定されたりした

※アテネ・パルテノン神殿の一部。本殿は修復中 2008年
デルフィもパルテノンも深い森に覆われていたという
キリスト教が広まる以前は、この国は多神教。
山の神様は「メドゥーサ」と言う女神で、森の中から人々を見守っていた。
メドゥーサがヘビの髪の毛を持つことと多神教時代の抹消もあって、
見るものを石に変えると忌み嫌われてしまったのでした。
キリスト教推進のローマ皇帝ユスチニアヌスがこの像をイスタンブールの貯水池に
投げ込んでしまったのは有名な話です。

※水槽から拾いだされたメドゥーサ(「日本よ、森の環境国家たれ」より)
レバノンスギは、広大なスケールで天をつく太い樹林が、
地中海東岸の中近東からトルコあたりまで存在したのに、
これをほとんどすべてを伐りつくしてしまいました。
メソポタミアをはじめ4大文明地も森がなくなって文明が滅びました。

※トルコ・ヒッタイト古王国のハットゥシャシュ遺跡
ここもレバノンスギの鬱蒼とした森林地帯だったらしい 2008年
この本を読むと、わたしたちの祖先は賢い選択をしたと知ります。
継続して森林を育成していく手法を確立してきたし、
治山治水という言葉のように、
日本の過去の為政者は、水を治めることが大きな役目でした。
小麦が主食のヨーロッパは、将来、人口増加で食物不足の時代を
むかえたとき稲作と違って反当たりの収穫量が少ないために食糧疲弊するのではとも書かれています。
外国の旅をすると、山山が厚い森林帯で覆いつくされている日本は、
手入れ不足が生じてはいるけれど、雨も多くて自然の豊かさに恵まれている国なの
だと知らされることです。
- 2013/05/29(水) 09:23:26|
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